A7271(W2765)

脇差 銘 前伯州信高入道 生年六十六才作之

新刀(寛文八年/1668) 尾張
刃長42.0cm 反り1.2cm 元幅36.5mm 元重9.0mm 先幅30.2cm

特別保存刀剣鑑定書

参考品

剣形:鎬造り、庵棟。刃および棟区は共に深い。身幅が殊の外広く元先の幅差は付かず、重ねは頗る厚い。反りがやや深めにつき、大切先に結ぶ豪壮な姿をしている。(刀身拡大写真
彫物:表裏に樋先の下がった片チリの棒樋がある。
鍛肌:板目肌詰んで青く澄んだ美しい鉄色をしており地錵が付いて処々湯走りかかり、樋中にも湯走りが浮かぶ。
刃紋:直ぐ調小乱れで焼きだし、錵本位の湾れ刃は大きくうねり、上半は乱れ大きく広くなり物打に大矢筈刃を配した迫力ある刃文をして僅かに棟焼がある。表裏の刃文はよく揃い、刃縁にはやや粗めの強い錵が厚く積もり、部分は地に溢れて湯走り状に頗る明るく輝いている。刃中は柔らかな匂いを敷いて、互の目の足が頻繁に延び、葉が浮かぶなど豊かな働きがある。
帽子:帽子には湯走りが積もり、直刃調小乱れ。先中丸、深く返り棟焼となる。表には「三日月」、裏には「満月」の形状をした跳び焼がある。
茎:生ぶ。鑢目大筋違いに切鑢。目釘孔弐個。茎尻は刃上り栗形。茎丸棟。佩表に七字銘『前伯州信高入道』の大振りな長銘、裏には『生年六十六才作之』とある。
 二代信高は、初代慶遊信高の嫡子として慶長八年、尾州清洲関鍛冶町に生まれた。河村伯耆という。同十五年名古屋城築城にともない名古屋関鍛冶町(現、名古屋市中区丸の内三丁目)に移住。寛永十年八月二十九日、三十一歳で伯耆守を受領した。尾張国初代藩主徳川義直の御用鍛冶に命じられ百石を受けている。寛文二年、六十歳で隠居「閑遊入道」と号した。隠居後は『伯耆守信高』のほか『前伯州信高入道』、『前伯州閑遊入道』、『前伯州山月信高入道』などと銘を切る。元禄二年九月二十七日没、享年八十七。
 三代信高、河村三之丞は寛永九年に生まれ、初銘を「信照」。寛文五年三月五日、三十四歳のときに伯耆守を受領して三代信高を襲名した。同年五月に尾張二代藩主徳川光友の命により尾張徳川家のお抱え鍛冶に任じられ扶持十人分を受けた。宝永四年八月二十日没、享年七十六。
 寛文から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められ。同藩の剣術指南役である柳生連也厳包の佩刀を鍛えた信高の刀は質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと大業物としての名声を世に知らしめた。父である閑遊入道信高と協力して鍛刀に励んでいる。歴代信高中、二代・三代合作の刀がもっとも出来が優れているといわれており、信高の伯耆守受領はこの代で終わる。
 伯耆守藤原信高の銘については二代・三代の銘振り・茎仕立てが近似していることから代別が困難ではあるものの、詳細に観ると銘の特徴として『守』の第三画は中央に向って角度付き鏨を運ぶこと、さらには『藤』の第三画は『月』の肩に向って長く斜めに切る、『信』の最終画はやや右下方に鏨を跳ねるなどの特徴は三代河村三之丞信高の切銘と考えられている。
 本作は柳生連也の兵法に基づく需打ちであろう。『生年六十六才作之』とあることから、二代信高、寛文八年の作であることがわかる。尾張藩の兵法指南役、柳生連也厳包所持の脇指 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』(桑名市博物館蔵)とは製作年代が近似し、造込、地鉄、刃文ともに頗る近似し資料的に頗る貴重な脇指である。
 身幅は殊の外広く、先幅は張り大切先に結ぶ威風かつ強靱な体躯は尾張武士委の大業物の貫禄を湛える。鉄色は青く澄んで強い肌合いを呈して処々柔らかな湯走りが浮かぶ。茎の鑢目、銘字の鏨は鮮明で保存状態は頗るよい。
尾張赤銅はばき・白鞘入
参考文献・資料:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月

脇指 銘 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』 (桑名市博物館蔵)