G24180(W6617)

脇差 銘 (菊紋) 山城守藤原国清

新刀 江戸時代初期(寛永十年・1633年頃) 越前
刃長41.7cm 反り0.8cm 元幅31.0mm 元重6.6mm

特別保存刀剣鑑定書

参考品

剣形:片切刃造り、庵棟。身幅広く、重ねが厚くやや先反りのついた豪快な姿をしている。裏は片刃造りで棟側に素剣、鎬筋側には腰樋の彫物、上半に蓮台と棒樋があり樋中に凡字の重ね彫りある。表は菖蒲造りで、鎬地に梵字、上方には棒樋に添樋の彫り物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌が密に詰んで地錵厚くついて肌潤い、処々に流れ交え大肌顕れる。
刃紋:浅い湾れを基調に互の目乱交える。刃縁は小錵よくついて明るく、処々に太い錵筋が流れ、刃中に匂いを深く敷いて焼刃冴える。
帽子:湾れこんで火炎風に尖り、先掃きかけて返り深く返る。
茎:生ぶ、目釘孔壱個。鑢目筋違い。茎は栗尻。佩裏の?下に十六葉の菊紋が深く刻まれ、目釘孔下方の鎬筋上に細鏨でやや小振りの長銘『山城守藤原国清』の銘がある。
 山城守国清初代は島田吉右衛門といい、慶長七年(1602)信州松代に島田彦八助宗の嫡男として生まれた。初め「助宗」を名乗り、後に上京して国広晩年の門人として学んだ。師匠である国広の没後は信州に帰郷したが、元和二年に下総より信濃川中島に入封した松平忠昌に仕え、同五年に越後国高田へ同行、さらには寛永元年(1624)に越前の北の庄(福井市)に転封となると、それに従った。寛永四年(1627)二月に山城大掾と同時に銘を『助宗』から『国清』に改め、同五年(1628)に山城守を受領して同年朝廷より十六葉の菊紋を賜った。城下の浜町(福井市中央三丁目)に屋敷を構えたという。寛文五年(1665)三月没、清圓寺(福井市宝永四丁目)に眠る。
 当時越前の北の庄は越前関と言われる「兼則」や「兼植」、初代康継の越前下坂一派、山城国より正則、虎徹の先祖にあたる長曾根系など数多くの名匠達がおり、五十万石の城下町として京、大阪につぐ大都市であった。当時一大派閥であった下坂初代康継は幕府より葵紋を賜わり、その勢力に対抗して国清は朝廷をたより菊紋を賜ったと考えられる。
 本作は先反りのついて寸のびた片切刃造りの脇差で身幅広く、先も張った豪快な寛永ごろの姿を呈して姿が好く、地金は小板目肌よくつんでやや流れる肌を交え、地錵が微塵に付いて潤い、地景が表出する所謂、『ざんぐり』した美しいもので、刃縁は錵づいて明るく冴え、中頃より焼刃高く、二重刃ごころの湯走りかかり、ここに金筋や砂流しが頻りとかかる沸の十分な働きを示している。
 初代の作品は山城伝の中直刃基調よりも、むしろ本作の如く錵出来の乱れ刃が上手であり、その代表作が寛永二十一年紀の刀(重要美術品)である。また本作の如く異形の「片切刃造」は同国の初代康継にもままみられる。十六葉の菊紋はやや大振りで深くかつ入念に刻されており、銘字はやや細い鏨で刻され、総じて右上がり気味で伸びやかである。本作は特別な需めで制作された寛永十年頃の作と鑑せられ、二筋樋、彫口の深い巧みな梵字や蓮台さらには樋中に重ね彫りになっていることから相州最上位工の貞宗に私淑しての作であることが窺える品格高い脇指である。
金着はばき、白鞘入り
参考文献・資料:
刀 銘 (菊紋) 山城守藤原国清 寛永九年二月日 第35回重要刀剣
小島つとむ 『山城守国清の代別と銘字判別の一考察 刀剣美術』 財団法人日本美術刀剣保存協会、平成23年4・5・6月