K57252(W6903)

脇差 銘 飛騨守藤原氏房

新刀 江戸時代初期(慶長頃/約400年前) 尾張
刃長32.7cm 反り0.2cm 元幅32.6mm 元重6.0mm

特別保存刀剣鑑定書

剣形:平造り、三ツ棟。身幅が広く、ふくらが張り寸が延びてほぼ無反りの豪壮な姿をしている。表には素剣、裏には護摩箸の彫物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌を主調に棟寄りに流れる肌を交え、地錵が厚くついて地景が湧き出して美しく、かつ頗る強い肌合いを呈している。
刃紋:錵本位の湾れ刃。匂い深く粗めの錵が付き、一部は地に溢れて荒錵状態となり、ふくら付近平地は、湯走りごころのほつれる刃や二重刃を交える。刃中は太い錵足が入り、錵匂いの闊達な働きがある。
帽子:浅くのたれ、中丸となり返りを深く焼いて、所詮『地蔵帽子』のかたちとなる。
中心:生ぶ。栗尻。鑢目は大筋違。茎孔壱個。佩表の目釘孔下にはやや大振りかつ、力強い鏨運びで『飛騨守藤原氏房』と銘ある。
 飛騨守氏房は若狭守氏房の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父である若狭守氏房が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男織田信孝の小姓として出仕し、父と共に織田信長に仕えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父若狭守氏房について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。同二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住し、寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』。
 銘は刀や脇指の場合、目釘孔の下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたもの(本作)は壮年期の作に多く見られるとも云われている。
 江戸時代初期にまま見受けられる一尺強の大振りの平造りの寸延び短刀の姿。棟を三ツ棟として、大振りの素剣と護摩箸の彫刻は信国の作域に迫り、強く私淑したことが窺える。桃山時文化を象徴した造り込みをしており出来が良く、尾張上級藩士の腰刀として伝承された頗る健全な体躯を誇る完存の優品である。
時代銀着せはばき、白鞘入。