A68932(Y1411)

大身槍 銘 肥州住藤原清国 (同田貫)

桃山時代(文禄・慶長頃/1592~1614) 肥後
穂長 74.0cm 茎長 26.5cm 元幅 28.0mm 首重 17.0mm

保存刀剣鑑定書

 メール問い合わせ

クレジット分割払い計算

剣形:平三角直槍、首五角。穂長は二尺四寸三分半と殊の外長い大身槍。元先の幅差開かず、先身幅たっぷりとした強靱な造り込み。平地には太い皿樋の彫り物があり、此所に朱漆塗りがある。(刀身拡大写真
地鉄:地鉄はよく錬れた板目肌に杢目を交えて処々流れる肌を交える。
刃文:匂い口締まりごころに直ぐ調子に浅く湾れ、ほつれる刃や小互の目が交じる。。
帽子:直ぐ調子に掃きかける。
茎:磨上げ。茎上方は浅い勝手下がり、下方は檜垣からセンスキ状の大筋違の鑢目がある。目くぎ孔壱個、茎尻は切。鎬造表の第一目釘孔下方には鮮明な鏨で『肥州住藤原清国』の長銘がある。
 肥後国熊本は中世より踏鞴製鉄の地として栄え、鎌倉時代末期には蒙古襲来に備え、山城より来派の鍛冶『来国村』を招聘して鍛刀をさせていた。国村は『延寿太郎』と称したことから延寿派の始祖として名高い。同国は南朝の忠臣である豪族・菊池氏の本拠地として栄えたが南朝の衰退とともに延寿鍛冶は四散して野鍛冶となっていた。
 同田貫は肥後国「熊本」の産、古刀末期から新刀初期の頃(慶長年間)に菊池よりの玉名の亀甲へと移住した菊池延寿鍛冶の後裔である。天正十六年(1588)、加藤清正が肥後に入国して北半を領するとともに延寿鍛冶の後裔を召抱え、熊本城の御城備刀を作らせた。これらが肥後同田貫鍛冶一門であり、「折れず曲がらず同田貫」と歌われ、猛勇な清正公の気風を反映して無骨で野趣溢れ、物切れ優秀な実用的価値の高い刀を鍛刀して乱世戦国の世に全盛期を迎えた。
 『文禄・慶長の役』での加藤清正らの大進撃での武功に多いに寄与して、その後の『関ヶ原の合戦』、『大阪夏・冬の陣』での実用武器として消耗が激しいものが大半で、群雄割拠、下克上の実力主義の世界に生きた猛者たちの剛健な気質を反映してか、野戦用として本作のような大身槍が散見されるのも特徴である。同田貫一門は加藤家が改易となり、細川忠利の入国後は衰亡してその鍛刀技術も一時失われてしまっている。
 代表工には清国・正国兄弟がおり、清正公より一字づつ賜り兄の「国勝」は「清国」に、弟の上野介「信賀」は「正国」に改名したと伝えられる。清国は伊倉で木下同田貫を興し、正国は小山同田貫を名乗り、亀甲に鍛冶場を開いた。他に「兵部」・「右衛門」・「又八」などがおり、長銘物の太刀や薙刀・槍は献上刀か高位の武将の注文打のため入念作が見受けられ「九州肥後同田貫上野介」、「九州肥後同田貫兵部」、「九州肥後同田貫又八」などの銘を入れたものの、脇差には唯番号だけを入れることに定まっていた。これらの事由から美術的に優れたものや個銘のある在銘品は限られている。
 表題の一口は同田貫の始祖である清国の平三角の直槍、穂長二尺四寸三分半(73.8cm)の威風堂々たる大身槍である。清国は「九州肥後同田貫」「肥州同田貫」などと銘を運ぶ作品は稀で、本作のように『肥州住藤原清国』と銘を運ぶことが多い。茎を磨上げられてはいるものの、鮮明な鏨枕の長銘を茎に遺し、威風堂々とした姿を今に伝える貴重な名槍である。
白鞘入り、古研ぎのため処々にヒケ疵があります。
参考文献 : 沼田鎌次 『新版日本の名槍』 雄山閣 昭和四十九年