H71494(Y1454)

笹穂槍 銘 賀州住藤原辻村四郎右衛門兼若造 延宝七年八月吉日

新刀 江戸時代前期(延宝七年/1679) 加賀
刃長36.0cm 元幅27.7mm 先幅29.1mm 元重13.3mm けら首重ね18.0mm 茎長31.8cm

特別保存刀剣鑑定書
特別貴重刀剣認定書

本間薫山先生鞘書(昭和五十三年)

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剣形:笹穂槍、両鎬、丸けら首。寸のびて、重ね厚く元身幅広めに穂先張る。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌に小杢を交え総体に肌たち、地沸厚くついて地景入る冴えた強い地鉄。
刃紋:中直刃浅く湾れ、精緻な小沸が厚く積もり匂口深い。刃縁には小沸の豊富な働きがあり、鼠足よく入り金線絡んで処々ほつれ、刃中は匂い充満し、沸の鼠足頻りと浮かび明るく冴える。
中心:生ぶ。茎尻は片入山形。茎孔弐個、鑢目は大筋違に化粧。指表に『賀州住藤原辻村四郎右衛門兼若造』の長銘、裏には『延宝七年八月吉日』の年紀がある。
帽子:焼刃強く、先掃き掛けごころ。
 新刀期加賀の代表工は兼若が筆頭である。『たとえ禄が低くとも兼若を持つ者には嫁にやる』と謳われた誉れ高き名工であることは周知の事実で、藩政時代を通じて士人の好尚に応じ今尚好事家の賞賛を博している。
 兼若家の始祖、四郎右衛門兼若は志津三郎兼氏の末孫で天正年間に美濃から犬山城下に来住した関出自の刀工。
彼の長男にである加賀初代甚六兼若の作品は重要美術品、『刀 銘 兼若 慶長九』や『賀州住兼若作 慶長拾二年二月日』、前者は美濃打、後者は加賀での鍛刀と鑑せられることから加賀に入国永住したのは慶長十~十一年頃と推量する事ができよう。慶長初年頃、本国美濃にいた甚六兼若は前田家のご用命を勤め、同四年の利家没後も御用を継続し移住を決意したと思われる。
 初めは兼の字を『魚兼』、慶長13年頃から兼の字は『兼若』特有のものに変わっている。本国美濃における『魚兼』を『賀州住兼若造』と長銘に改めて『兼』の字を備州長船兼光の『兼』に習い改めていることは興味深い。元和五年九月(1619)に越中守を受領して名を『高平』に改めたため、『兼若』銘の多くは二代以降のものになる。
 二代兼若又助は初代の三男で慶長十五年(1610)生まれ、延宝五年正月(1677)没、行年六十六。初代と比較すると『賀州住兼若』と五字銘に切ることが多い。寛文年間は嫡子の三代兼若四郎右衛門も鍛刀に従事したことから親子合作や代作・代銘もある。
 本槍は上作鍛冶の誉れ高き、三代兼若四郎右衛門の笹穂槍。二代兼若又助の長男で、弟に二代出羽守伝右衛門高平がいる。父又助の晩年にはその代作代銘をも数多くなすという。延宝五年(1677)父又助歿後に三代兼若を襲名した。『賀州住兼若』、『志津三郎兼氏末葉加陽金城下辻村四郎右衛門尉兼若造之』などと茎に銘を刻している。宝永八年五月(1711)歿。
 二代兼若又助同様に上手で、父の代作期も含めて延宝五年より正徳元年まで作刀しており、親国貞と真改の関係にも通じるところがある。
 その作風は箱乱れ、互の目乱れ、互の目丁子、逆丁子乱れ、直刃とあり、刃文の巧妙さは歴代の兼若の中でも随一といわれている。
この笹穂槍は茎の錆味良好に鑢目は明瞭。駐槌地の『賀州住』につづいて『藤原』氏を名乗り、姓『辻村』、さらには始祖父の諱『四郎右衛門』を誇らしげに刻する長銘は入念作の証である。裏には『延宝七年八月吉日』の年紀の鏨が鮮明に刻された稀有な名槍である。良好な保存状態の健全な体躯の神妙な明るい刃縁には、葉・鼠足が頻りと働いて、小沸に絡む金線・ほつれ刃は明るく冴えている。
本間薫山先生鞘書(昭和五十三年)
参考文献:
『加州新刀大鑑』財団法人日本美術刀剣保存協会石川県支部発行、昭和四十八年一月