A3300(S8300) 刀 銘 尾張国藤原信高
附)青貝微塵散鞘打刀拵
保存刀剣
新々刀 江戸時代後期(嘉永/1848年頃) 尾張
刃長70.5cm 反り1.3cm 元幅31.9mm 元厚7.0mm 先幅22.6mm
剣形:鎬造り、庵棟、重ね厚く中切先が延びる。総体に平地が広く、平肉を落とした造り込みをしている。表裏に丸留棒樋の彫物がある。(刀身詳細写真
鍛肌:板目肌が肌立ち、流れる肌目を交える。
刃紋:直ぐに焼きだして腰の開いた互の目を主調に、丁子刃、蛙子風の刃、尖りなど変化のある焼刃を示す。互の目の谷に小沸足が太く入る。横手下で鎮まり直刃になる。
帽子:直調となり、表は二重刃ごころに先掃きかけて中丸に返る。裏は中丸。
中心:生ぶ。棟に小肉付く。刃上がり栗尻張る。目釘孔壱個。大筋違の鑢目。佩表の目釘孔下方、鎬筋上に大振りの長銘『尾張国藤原信高』の銘がある。
 初代、河村左衛門信高は三阿弥派に属し、兼高の子。永禄四年(1561)に美濃国上有知に生まれた。氏房とは同姓の一族でもある。織田信長から「信」の字を下賜されたと伝えられている。歴代清洲城主の愛顧を受け、慶長十五年(1610)名古屋築城と同時に名古屋鍛冶町(名古屋市中区丸ノ内三丁目・テレビ塔付近)に移住している。尾張徳川家の手厚い保護を受けて幕末までその名跡は続いた。
 本作は嘉永頃、九代信高の打刀である。幼名を河村甚太郎という。初銘を『信照』、八代甚六信高に師事し、師が隠居した文化十年正月二十九日(1813)以降は『藤原信高』と『信照』銘を併存している。天保八年(1837)家督を相続し河村甚之進と改めて九代目信高を襲名した。『尾張国信高』、『藤原信高』などと銘をきる。安政三年九月二十三日(1856)に没し、幕末最期の十代・河村邦三郎信高が家督を相続している。
 本作は二尺三寸三分の定寸法、頃合いの反り、大切先に結ぶ勇壮な姿、および硬軟の鋼を折返し鍛錬し表出される板目肌から、実利主義を重んじる尚武の尾張藩士の注文需打ちであろう。泰平の眠りを覚まし、反体制運動から明治維新への時代の息吹を湛える秀品である。
 青貝微塵散鞘打刀拵(拵全体写真)・(拵部分拡大写真
白鮫着納戸色常組糸摘巻柄、縁・頭は鉄地蝙蝠図、十二支図容彫目貫、亀甲文薪藁束図鉄地木瓜形鐔(信家と銘あり)、青貝微塵散鞘
金着一重はばき、白鞘付属
研磨状態:良好/保存状態:良好
八代信高
寛政頃(1789-1800)、名は甚六、後に甚之進に改めた。六代信高の門人であったが、天明三年(1783)師の没後、薩摩の元平に学び、さらには大阪の尾崎源右衛門助隆の門に入り学んでいる。七代信高が幼少であったためその技術指導に当たり、寛政二年五月(1790)、尾張徳川家のお抱え鍛治として三人扶持を受け同三年二月(1791)「清水甚之進信高」の名乗りを許されて八代目を襲名している。同八年十一月十八日(1796)、四人扶持を加俸されている。文化十年正月二十九日(1813)に隠居し、天保八年九月八日(1837)没