A9909(S1863) 刀 銘 左行秀鍛之 安政三年二月吉日 特別保存刀剣
正真秀作鑑定書
新々刀 江戸時代後期 (安政三年/1856) 土佐
刃長 82.9cm 反り 1.2cm 茎長 26.2cm 元幅 33.0mm 先幅 23.0mm 元厚 8.0mm 刀身重量 1170㌘
剣形:鎬造り、庵棟。寸延びて身幅広く、鎬筋高く平地が広い。浅めの反りがついて重ねが厚く中峰のびる。(刀身拡大写真
地鉄:大板目肌に柾目を交えてよく錬れて肌目たつ。地沸が微塵に厚く付いて潤いがあり、板目肌に沿って太い地景が明瞭に表れる。
刃紋:刃区に小互の目を焼いて太直刃やや湾れごころ。刃縁に小沸頗る厚く深く積もり、刃中匂口もっとも深く、烈火の如く足が放射し、頗る明るい光彩を放つ。
帽子:焼き強く直ぐに掃きかけて中丸に返る。
茎:生ぶ。やや太め筋違い鑢、磨りだしに化粧鑢がある。棟小肉ついてここには大筋違の鑢。茎尻は刃上がり栗尻張る。目釘孔二個。茎鎬筋上に太刀銘で大振りの鏨で『左行秀鍛之』の銘、裏の鎬地上方には『安政三年二月吉日』の年紀がある。
 左行秀は、伊藤五佐衛門の次男として文化十年(1813)、筑前国上座郡朝倉星丸村に生まれた。浪人であったためか伊藤姓ではなく、伯父の姓である豊永を名乗り、名を久兵衛という。刀工を志して天保初年(1830)頃出府し細川正義の門人、清水久義に鍛刀の技を学んだのち、弘化三年(1846)行秀三十四歳の時に南海の雄、山之内家藩工、関田真平勝廣の推挙により土佐に下り水通町三丁目の関田邸で鍛刀した。南北朝時代の左文字の末裔を自称し、『三十九代孫左行秀』と銘する作刀が存在している。
 安政二年(1855)八月、師の勝広歿後、同三年(1856)五月に三人扶持で刀・鉄砲鍛冶両職で山之内家に抱えられ土佐藩工となる。同年名を『久左衛門』と改めた。
 安政七年(1860)に出府して砂村の土佐藩邸(品川区東大井3丁目)に鞴を構えた。慶応三年(1867)夏、板垣退助との不和が元で土佐に帰還して名を『東虎』と改めている。
 同時代の優工、固山宗次が終生備前伝の作品に固執したのに対して、行秀は相州伝の名工、源清麿と双璧とされて誉れが高い。また両工ともに備前伝から相州伝に転向を成し遂げた数少ない刀鍛冶であった。 作刀は明治三年(1870)で終わり、晩年は嫡子幾馬と横浜で暮らし、明治二十年(1887)歿、享年七十五歳。
 行秀の高知城下における鍛錬場の関田邸からわずか十軒先には通称『饅頭屋長次郎』、土佐脱藩浪士の近藤長次郎(上杉宗次郎)がおり、徒歩五分の所に坂本龍馬の実家がある。龍馬の兄、坂本直方は行秀に作刀依頼をしている。行秀の豪快たる作風は土佐人の趣向に合致したとみえて当時の尊皇攘夷の気風がもたらした軍備拡充の波に乗り山之内家の家臣からの注文が多くある。相州伝の技倆では新刀期の井上真改、津田助廣、虎徹と並んで最上作の誉れ高く長寸で反りの浅い切先の伸びた体配を特色としており、またこれとは別に無反りに近く、身幅の狭い小切先に結ぶ勤皇刀と呼ばれものがある。沸匂いが殊更深く、地沸が厚く付いて地鉄が沸で満天の星空の如く煌めくもので、その焼刃はさながら古作の郷義弘のごとくである。(嘉永三年、六年紀の刀が重要美術品に指定されている)
 表題の刀は安政三年(1856)、行秀四十四歳の土佐関田邸に於いての作品。太刀銘で『左行秀鍛之』、裏には『安政三年二月吉日』の年紀がある。長大で身幅は広く、反りが浅くついて中峰のびた豪刀。地鉄は板目に流れ柾がの交える鍛えが優れて地沸が細やかについて太い地景表出して冴えている。焼刃には、純白の小沸が最も厚く・広く・微塵に積もり、刃縁からは頗る明るい光彩を放ち、沸足が太く入った刃中には匂が霞の如く最も深く充満して躍動感に満ちている。地刃共に同工の技倆をいかんなく発揮した秀逸作である。
金着牡丹鑢庄内はばき、白鞘入り
参考文献:片岡銀作『左行秀と固山宗次その一類』大風印刷、平成十二年
橋田庫欣『左行秀の新研究』刀剣美術118~123号、日本美術刀剣保存協会、昭和四十一年十一月~四十二年三月
刀 銘 左行秀鍛之 安政三年二月吉日
刀 銘 左行秀鍛之 安政三年二月吉日
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