E7825(S826) 刀 銘 伯耆守藤原信高 (初代) 保存刀剣
正真鑑定書
新刀 江戸時代初期(慶長頃/1596~)尾張
刃長 75.9cm 反り 1.2cm 元幅 31.3mm 先幅 23.1mm 元厚 7.5mm
剣形:鎬造り、庵棟。二尺五寸と寸がのび、平地広めに重ね厚くやや浅めの反りがつき、元先の身幅差さまで開かずに中峰延びる。鎬地に樋を掻いて重量を整えた威風堂々とした刀姿。(刀身全体写真
彫物:表裏には丸留棒樋の彫物がある。
鍛肌:板目に柾ごころの地鉄はやや肌立ち、地斑調に地沸がついた強靭な地鉄をしている。
刃文:焼刃高い大湾れに小互の目を交じえ、刃縁にはやや粗めの沸がついて地に湯走りかかり、金筋・稲妻はいり明るく冴える。
帽子:表裏とも焼刃深く一枚風となり大丸。
中心:生ぶ。鑢目は筋違に刃上がり栗尻張る。棟肉平。目釘孔壱個。履表の鎬筋上にやや小振りの長銘『伯耆守藤原信高』がある。

 初代信高、河村左衛門は三阿弥兼國の末裔の鍛冶で兼高の子。永禄四年(1561)に美濃国上有知(現美濃市松森)に生まれた。氏房とは同姓の一族である。
天正初年(1573~)尾張清洲関鍛冶町に移り、織田信長からの寵愛を受け「信」の字を下賜されたという。天正四年、安土築城の際、信高は弱冠十五歳であった。
 天正九年(1581)、弱冠二十一歳のときに『伯耆守』を任官と伝えられる。清洲城下在住の間、織田信長の陣刀を打ち、以降歴代の清洲城主の愛顧を受けて徳川家康、松平忠吉の打物を命じらている。
 慶長十五年(1610)名古屋築城に際し名古屋鍛冶町(現名古屋市中区丸ノ内三丁目・テレビ塔付近)に移住、初代藩主徳川義直の命により作刀した。
 寛永十年、七十三歳のとき、二代信高に家督を譲り入道して『慶遊』と号し、同十三年九月九日歿享年七十六。以降信高家は尾張徳川家の手厚い保護を受けて幕末までその名跡は続いている。 
 この刀は殊の外長寸で、平地広めに樋を掻いて反り浅くつき中峰延びる所謂、慶長姿を呈して力強い。 強靭な板目肌には地沸が厚くついて地景が表出し、大湾れの焼刃は湯走り状に沸厚くついて明るい閃光を放つ。刃中は深い匂い充満して金線・稲妻かかり古作相州伝の風情がある。
 『尾張の刀工 伯耆守藤原信高上三代についての考察』によると、初代の信高銘は総体に小振りで、『伯』の一画と三画および『信』の一画は反りが少なく、茎の棟肉は平となり、筋違の鑢には化粧鑢がないのが特徴である。
銀二重はばき、白鞘入
参考資料:
加藤博司『尾張の刀工 伯耆守藤原信高上三代銘についての考察』刀剣美術第三五七号 昭和六十一年
岩田與『尾張刀工譜』名古屋市教育委員会 昭和五十九年
 
刀 銘 伯耆守藤原信高 (初代)
刀 銘 伯耆守藤原信高 (初代)
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