剣形:平造り、真の棟。やや薄めの重ねに寸延びて身幅殊のほか広く、やや浅めの中間反りがついてフクラ張る。表には独鈷剣に草の倶利伽羅、裏には護摩箸樋に不動明王の梵字の彫物がある。(刀身拡大写真)
地鉄:大板目肌がよく錬れて処々に渦巻く肌を交えて、総体に肌立つ。太い地景が板目鍛肌に沿って明瞭に顕れ、地沸厚くついて湯走り状の地沸が微塵につく。
刃紋:高低変化のある互の目に大房丁子を交える。刃縁には小沸が厚く微塵に積もり、部分沸崩れるところがあり明るい光彩を放ち、ここに金線、稲妻や砂流しなどの沸筋が頻りとかかる。刃中は匂い深く充満し、刃先に向かい太い沸足が放射して沸の豊かな働きがある。
帽子:乱れ込んで火炎風に強く掃きかける。
茎:生ぶ。大振りな舟底形の茎は雉子股風に刃側を削いで、棟小肉ついてここにも大筋違に化粧鑢があり、先栗尻張る。大筋違に化粧の鑢目。瓢箪形の飾目釘孔には三ヶ月形の銅埋金。表の目釘孔の上方に横書『七十七
翁』の添銘、下方中央には『藤直胤(花押)』。裏の棟寄り上方には『嘉永七年二月』の年紀がある。
直胤は名を庄司箕兵衛、大慶と号す。細川正義と列び、水心子正秀高弟の両雄として称され、新々刀屈指の最上作優工である。
安永七年(1778)、出羽国山形城下鍛冶町に生まれ、同地の鎌鍛冶職人であったが、同郷の先輩である水心子正秀を頼って寛政十年(1798)頃、箕兵衛二十歳頃に江戸に出府、日本橋浜町の秋本家中屋敷にある水心子正秀宅に身を寄せた。
享和末年(1803)頃には茅場町の炭問屋の娘と結婚し神田茅場町に所帯を構えて独立したが、文化三年(1806)頃の火災焼失により現在の台東区和泉町に居を構えたと伝わる。(直胤の『文化八年十二月』年紀(1811)の短刀には『於東都和泉橋』と記している)
館林藩主、秋本家に師の水心子正秀と共に仕えて文政五年(1822)頃に筑前大掾を任官、晩年の嘉永元年(1848)に上洛して美濃介に転じた。後年には下谷御徒町に定住、安政四年五月二十七日歿(1857)、享年七十九であった。浅草、新谷町本然寺に葬られている。
半世紀以上に及ぶ作刀期間があり、文化初頭には師同様の濤瀾乱れの作風がみられるものの、師匠の水心子正秀が晩年に唱えた古刀復古論に深く共鳴して、以降終生を古刀復古の探求と実践に没頭し、遂には師の作域を陵駕する傑作を残している。持ち前の器用さと鋭敏な感性、長期間に及ぶ旺盛な探求心により五箇伝のいずれにも通じて作域は広範囲に及んでいる。旅好きでもあり、良質な鉄の探訪研究と受注を兼ねて諸国を行脚しており、各地の駐鎚地名を刻した作品が現存している。
文化・文政頃の備前伝と天保年間以降の相州伝に特に優れた手腕を発揮し傑作が多い。備前伝では長船上位作に私淑した作がありながらも、鎌倉時代の福岡一文字を彷彿させる腰反りで頃合いの姿に純然たる匂い本位の丁子乱れという伝統的な鍛錬焼き入法ではなく、南北朝時代の豪壮な姿に似た体躯に丁子風や片落ち互の目を焼いた、所謂、景光や兼光に私淑した作品が多い。
この平造小脇指は嘉永七年(1854)、直胤晩年の喜翁(七十七)祝を祈念する相州伝の傑作。壱尺弐寸八分と寸のびて身幅広く、フクラ豊かに張り威風堂々として凄味がある。鍛えは大板目よく錬れて地沸が鮮やかについて渦巻き状の地景が湧き出す覇気溢れる地刃。本荘義胤の手によるものであろうか、表の独鈷剣に草の倶利伽羅の原型は「獅子貞宗」(大阪御物・焼身)に観られ、南北朝時代の相州正広、室町時代の相州綱広や江戸時代初期の越前康継らの相州伝作風を得意とした諸工らにより写しが制作され受け継がれている。本作も「獅子貞宗」の彫物を範とし、相州正広や秋広らの地刃に私淑した相州伝の作域を遺憾なく発揮し見事である。
独創的な舟底形の茎は雉子股風に造形され、日月を象った飾目釘穴の上方には、草書体で『喜』を顕す『七十七 翁』の鏨を運ぶ。藤原の「原」を省いて『藤直胤(花押)』と茎中央に大振りでやや細い鏨枕の立った銘字を刻す。
巨匠直胤の、洗練された造り込みと創造的な茎仕立て、覇気溢れる地刃の景色は、新々刀屈指の卓越した技量を実証する屈指の秀逸作である。
金着せはばき、白鞘入り
参考文献:本間順治、佐藤貫一 『日本刀大鑑 新刀篇二』 大塚巧藝社 昭和四十一年 |