H44406(S2093) 刀 銘 若狭守氏房作 元亀二年八月日 第十六回重要刀剣
古刀 室町末期(元亀二年/1571年) 尾張
刃長70.9cm 反り1.3cm 元幅27.5mm 先幅20.5mm
剣形:鎬造り、庵棟 中峰、先反り浅い。表裏に棒樋を掻通す。
鍛肌:板目肌流れ心に僅かに肌たち、地沸つく。
刃紋:大互の目の腰刃を焼き、下半は表裏の刃比較揃って、湾れ互の目、尖り刃入り、足働き、総体砂流しかかり、沸つく。
中心:生ぶ、先栗尻、鑢目筋違い、目釘孔弐(壱埋め)、表目釘孔下中央にやや太い鏨で長銘、裏に同じく元亀の年紀がある。
帽子:乱れこみ先小丸。表に跳焼きかかる。
(初代、若狭守、元亀)天文三年善定家の清左衛門兼房の三男として生まれる。姓を河村、名を京三郎と称し、後に清左衛門と改めた。はじめは「兼房」と銘を切る。尾張清洲城主である織田信長に仕える。弘治二年に兄である石見守国房より関鍛冶の惣領を譲られた。永禄十三年四月十九日、37歳で左衛門少尉に任ぜられ「氏房」と改め、三日後に若狭守を受領した。天正五年には信長に従い近江安土に駐鎚、同十年六月二日織田信長自害の後、岐阜に戻り、織田信孝に仕えた。同十二年尾張清洲に戻り、蟹江城主佐久間正勝の扶待を受けた。同十八年五月十一日、享年五拾七歳で没した。大須門前町の東蓮寺(現在名古屋市昭和区八事に移転)に葬る。熱田神宮には「若狭守氏房作奉熱田皇大神宮大広前舎人清太左衛門」銘の二尺三寸三分の刀がある。本作は元亀二年、氏房三十八歳の作で豪壮な造りこみで板目肌に「兼房乱れ」と呼ばれる頭の丸い互の目に尖りごころの刃を交えた桃山時代の作柄を顕し、刀が片手打ちの頃合の姿から両手打ちの時代へと変貌したことが首肯される壱口で、棒樋を掻通したため、銘は茎の中央に寄せて「若狭守」を小さく、「氏房作」を大きく切る典型の銘振りを顕している。現存するものが少ない初代氏房の逸品で是ほどまでに出来の優れたものは他に類を見ない。
金着せ二重はばき、白鞘入り。