K104(S6100) 刀 銘 於東都長運齋綱俊精鍛
万延二年二月日 長運齋是俊
特別保存刀剣
新々刀 江戸時代末期(万延二年/1861) 武州
刃長85.5cm 反り1.0cm 元幅32.5mm 先幅19.0mm 重ね7.8mm
剣形:鎬造り、庵棟。寸がすこぶる長く、反り浅めに付く。元身幅広く、重ね厚く、健躯を誇る剛刀である。(刀身拡大写真
地鉄:小板目緻密に詰んで処々流れる肌合いを交えて総体に鉄色冴える。
刃紋:錵本位の広直刃。ほつれる刃や小互の目を交えて小足入り、刃縁頗る明るい。刃中に小錵充満して冴える。
帽子:直ぐに小丸となる。
茎:生ぶ。鑢目は大筋違いに化粧鑢。茎棟に小肉が付く。茎尻は刃上がり栗尻。目釘孔壱個。佩表の鎬地上に長銘「於東都長運齋綱俊精鍛」、裏の鎬地に「万延二年二月日」の年紀、茎孔下方の平地に「長運齋是俊」の合作銘がある。
 長運歳綱俊は名を加藤八郎、寛政十年(1798)出羽国米沢の加藤国秀の次男として生まれた。号は長運齋という。長兄に加藤綱英がおり兄弟で出羽米沢藩主上杉家の藩工となり、文政頃に出府して江戸麻布飯倉片町(現在の現在の六本木五丁目と麻布台三丁目の各一部が町域)の上杉家中屋敷に住して鞴を構え鍛刀している。安政元年(1854)『長運齋』の号を息子の是俊、二代綱俊に譲り、自らは『長寿齋』と名乗っている。
 水心子正秀に学び、甥に石堂是一、弟子に固山宗次、高橋長信、青竜軒盛俊など数多くの優れた門人がおり、幕末の江戸で一大流派を築いた。文久三年(1863)十二月五日没、享年六十六。
 二代綱俊は名を加藤助一郎、初代綱俊の次男で初銘を『是俊』といい、安政元年(1854)『長運齋』の号を父より譲り受けて『長運齋是俊』とし、文久三年(1863)、父没後は『長運齋綱俊』を襲名している。慶應元年頃、日州伊藤家に抱えられ三年あまり日向に駐留している。明治維新を迎えて東京にもどり、明治二十六年十一月二日没、享年六十一。
 本作は万延二年(1861)、綱俊の晩年六十三歳、子である是俊との合作である。鑢目の化粧や浅い栗尻となる茎は子の是俊が仕立てており、銘切りは父の綱俊が行っている。二尺八寸二分と長寸で、身幅広く、重ねの厚い頗る量感ある剛刀である。地鉄は鉄色が明るく澄み渡り、小板目肌が密に詰んで冴えており、刃縁は小錵が厚くついて頗る明るく、錵匂が春霞のごとく刃中に充満している様は新々刀期の上位刀工であることを首肯する優作である。備前伝の丁子乱の良作を残し、津田越前守助広の濤乱乱で名を挙げた新々刀期上位刀工でもある。本作は幕末動乱の世に具えての需打ちであろう、質実ともに熟した長寿齋綱俊と子である是俊を代表的する合作刀である。製作当時の体躯を保ち保存状態も良く資料的価値も高い完存の優品である。
金着せ二重はばき、白鞘入『佐藤寒山博士鞘書』(昭和壬子弥生吉日・昭和47年)