K21730(W8573) 小太刀(脇指) 銘 相模守徳印家久 元禄十七年二月吉日 附)茶梨子地塗鞘毛抜太刀拵 |
保存刀剣 |
新刀 (江戸時代中期 元禄十七年/1704) 尾張 刃長57.6cm 反り2.3cm 元幅30.6mm 先幅20.1mm 元重7.0mm |
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剣形:鎬造り、庵棟。反りが深く、重ね厚く、元身幅広く踏ん張りがあり、元先の幅差がやや付いて中峰延び、所詮小太刀の造り込みをしている。(刀身拡大写真) 鍛肌:小板目肌よく詰んで、杢目が処々交じり、鎬地は柾目。平地には地錵がよく付いて明るく冴えて、清涼な地鉄をしている。 刃紋:浅い湾れに小互の目を交え、明るい刃沸が厚く積り、互の目の沸足がよく入る。処々に尖りごころや小丁字が平地にのびて、一分は跳び焼となり、表裏の腰元や裏の物打には筋雲状の跳び焼を形成するなど闊達な刃文がある。物打上部より焼刃は鎮まり直刃調にホツレる刃をとなる。 中心:茎生ぶ、茎尻入山形。目釘孔壱個、鑢目は鷹の羽。佩表目釘孔下の鎬筋上に銘『相模守徳印家久』、裏には『元禄十七年二月吉日』の年紀がある。 帽子:直ぐ調に湾れて先中丸に返る。 尾張は日本の中間に位置し、東西勢力の折衡地であり、文化交流地でもあった。古刀期における尾張の刀工は室町期に国次らの『山田関』(現在の名古屋市北区山田町)、兼延らの『志賀関』(同北区志賀町)とよぶ美濃鍛冶の一派らが、尾張各地に割拠していた豪族を頼り来住していたにすぎない。戦国時代後期になると、兼房・氏房・信高・政常・寿命・光代らの刀工達が小牧・清洲に転住し、慶長十五年(1610)の『清洲越し』により名古屋城下関鍛冶町(現、名古屋市中区丸の内三丁目)などに移住して隆盛した。来国治は尾張徳川家のお抱え鍛冶で、名古屋城内 表題の家久は犬山城下町に移住した『徳印』一門で、初代を清左エ門、二代を喜平次、三代を孫三という。美濃関の住人で、はじめ飛騨高山に住む、その後伊勢に転住したのちに犬山城の東門にある内田御門扉(現犬山市犬山字内田の瑞泉寺に移築)の金具を造営し、その功あって寛文年間に三人扶持をうけて犬山中本町鍛治屋町に居住し成瀬家お抱えの刀鍛冶となった。元禄年間に相模守を受領しており、年紀は元禄七年~正徳三年(1694-1713)までのものを観る。熱田神宮宝物に『鳩丸』と名付けられた銘『家久作』の刀がある。また犬山城の守護神である針綱神社には三尺七寸弐分に及ぶ大太刀、銘『尾州犬山白山宮奉願今度之諸病悩早速悉除御身心御安徳所為神器太刀壱振奉籠宝殿者也 元禄十五年十二月吉日 相模守藤原家久作之』がある。 本作は壱尺九寸と頃合いな寸法ながら小太刀として製作され、生ぶの茶梨子地塗鞘毛抜太刀拵が附帯している。 総金具素文無銘 白鮫着柄 十六葉菊紋毛抜形透長目貫 鐔 銀地木瓜形 大切羽四方猪の目透 太鼓金 三つ葉葵紋 太鼓革 桜花散文 革捻上・革緒 赤銅はばき・白鞘入 天下太平を願い(注)、尾張犬山城下旗本の特別の需めにより家久が鍛刀したものでろう。同作の茶梨地塗鞘毛抜太刀拵の太鼓金には尾張徳川家配下であることを示す三つ葉葵の家紋がある。 参考文献・資料: 岩田 興、『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日 注)元禄から宝永にかけて世相は平和な時代でありながらも、元禄16年2月(西暦3月)に赤穂浪士46人が切腹、尾張犬山藩の第3代当主、成瀬 正親は 同年9月20日(1703年10月30日)に65歳で死去、同じく11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄大地震など元禄16年は社会不安と天災地変の年であった。翌元禄17年には虚説や風評への取締を命じる町触が出されており、同3月には「宝永」への改元も行われるなど激動の年である。宝永4年(1707)には宝永地震・富士山の宝永大噴火も発生しており、元禄末期から宝永年間は巨大地震が頻発した時期であった。 |
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