M20148(T3192) 短刀 銘 兼定 [和泉守兼定(之定)] 附)黒漆杢目文沈金塗鞘短刀拵 |
特別保存刀剣 『美濃刀押形集所載』 『刀剣美術第七四一号所載』 |
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古刀 室町時代後期 (永正後半頃/1504~20) 美濃 刃長 26.5cm 内反り 元幅 22.5mm 重ね 5.4mm |
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剣形:平造り、三つ棟。身幅重ねとも尋常に内反りの気品のある造り込み。元重ねに比して先の重ねがやや薄い造り込み。ふくらやや枯れごころに端整な姿をしている。(刀身拡大写真) 鍛肌:よく錬れた板目肌の地鉄は処々強く流れ、肌立ちごころとなり、地沸を厚く敷いて鉄色明るく冴えて棟よりに白け映りがたつ。 刃文:中直刃は僅かに湾れごころ、刃縁の沸柔らかく匂口締まりごころとなり明るく冴える。 帽子:焼刃の高い直調焼刃は先小丸となり、やや刃方に倒れ返りを深く焼き下げる。 茎:生ぶ、目釘孔壱個。刃上がりの栗尻。平肉ついた平地には細やかな檜垣の鑢目があり、棟の小肉豊かにつく。佩表のやや下方棟寄りには、大振り草体の特徴ある鏨運びで所謂、之定と呼ばれる『兼定』の二字銘がある。 室町時代、応仁の乱から戦国時代へ移行する時期は、土岐氏の衰退による守護代斉藤氏の台頭により、美濃の刀工群はさらに上質の鋼を用いて美術的にも優れた作品が生み出されるようになり中興の活況を呈するようになる。 『和泉守兼定(之定)』と『兼元(孫六)』は業物列位で『最上大業物』として戦国武将に愛玩され、藤代義雄氏はその著書「刀工辞典」で『和泉守兼定(之定)』と『兼元(孫六)』両工を『最上作』に指定している。 和泉守兼定(之定)は明応八年以降頃から兼定の『定』のウ冠下を「之」と切ることから『之定』と呼称されている。同工の製作期間は、『定』のウ冠下を楷書体で「疋」と切った平造脇差『濃州関住人兼定 文明四年八月日』を以て同工の最初期銘とし、『之定』銘の刀『和泉守兼定作 大永六年正月吉日』に至るまでの五十四年間としている。 同工の年紀作から勘案すると、文明四年(1472)から少なくとも明応八年(1499)までは『定』の字を楷書で切っており、明応十年紀の薙刀では楷書の『定』の字を草書体の所謂『之定』へと改めている。 和泉守兼定(之定)は刀工としてはじめて、国司の任官受領銘を用いたとされ誉れ高い。押型・現存資料によると、和泉守の任官は永正五年頃から同七年の範囲であろうとされている。それまでの備前などの刀剣産地においては刀工が銘に官職名を用いることはあったが、それらは「左兵衛門尉」や「修理亮」といった中央官僚の官職名であり、特に室町時代以降は朝廷から許されたものではなく、通称として用いられ非公式なものであった。これに対して、兼定(之定)が「和泉守」を正式に任官したのは、美濃国守護代であった斉藤利隆の尽力があったとされている。 この短刀は兼定の技倆の高さを窺う一口である。『和泉守』任官後はこの短刀のように、さながら鎌倉時代後期の短刀姿に範を採った尋常な身幅に内反りのついた気品ある姿をして、板目鍛えの地鉄に端整な直刃をやいて地刃共に明るい作風が多くなる。 茎仕立ては細やかな檜垣鑢が丁寧に施されて小肉つき、至高の錆味を有している。大振りの二字銘はもっとも銘字が凛として整い見事。ウ冠下『之』の草の運びが『少』となる永正年間後期頃の銘字の特徴が明示されており、『和泉守』受領後の漲る気迫と風格がそなわる。 山城もの最上作と比較して遜色ない完存の優品である。 『美濃刀押形集』および『刀剣美術第七四一号』所載品 附)黒漆杢目文沈金塗鞘短刀拵(拵全体写真・刀装具各部写真)
※和泉守兼定(之定)の鏨銘は、『兼』の字の第二画目と第三画目の鏨が同方向に連ねてながれ、第九画目の鏨は下から上へと打ち上げ、さらに、十・十一・十二画目は右から左へと同方向に打たれている。また『定』の字の第一画目が下から左上に向かって打たれている手癖がある。この刻銘の特徴は二代兼定の『ノ定』銘をつうじて、楷書体の明応年紀の作品やさらに遡る文明年紀の作刀にも同様の特徴が顕れている。 参考文献: 鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』里文出版、平成十八年 『特別展 兼定と兼元 -戦国時代の美濃刀-』岐阜市歴史博物館、平成二十年 『兼定 刀都・関の名工』岐阜県博物館、平成三十年 加納友道『美濃刀押形集』日本春霞刀剣会、昭和五十二年 『刀剣美術・第七四一号』(財)日本美術刀剣保存協会、平成三十年 |
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