N2545(W2769) 脇指 銘 伊勢守藤原信貞 得能鑑定書
新刀 江戸時代初期(寛永/1624年頃) 美濃
刃長53.9cm 反り0.8cm 元幅30.0mm 元厚5.8mm 先幅20.7mm
剣形:鎬造り、庵棟、重ねやや薄く、平地が広く平肉が付かない造り込みで、中切先延びる。表裏に棒樋の彫物がある。(刀身詳細写真
鍛肌:小板目肌がよく詰んで、処々に大肌を交える。
刃紋:尖り互の目乱が三本杉となり一団を形成して連なる。尖り刃の焼頭は高く、一分が鎬筋まで届く。乱れ刃の谷は太い足がよく入り僅かに砂流しがかかる。
帽子:表裏とも互の目のまま乱れこんで地蔵風となり先掃きかける。
中心:生ぶ。棟に小肉付く。茎尻は刃上がり入山形。目釘孔壱個。鑢目は大筋違い。
戦国時代の美濃国には土岐、斉藤、明智をはじめとする豪族や隣国の尾張は織田、甲州の武田、三河の徳川、駿河の今川、関東の北条、上越の上杉などの武将のほとんどが美濃国の刀鍛冶のお得意先となり需要に応えた。岩捲は大野郡清水付近(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)に住し、西郡寿命の末流と伝えているものに大永二年紀(1522)の作品がある初代「氏信」がおり、二代「氏信」は天文(1532〜1554)頃、三代「氏信」は元亀(1570〜1572)頃と云われている。また三代「氏信」の弟には「氏宣」があり、天正(1593〜1591)頃に兄と同じく、清水で鍛刀している。「濃州清水住氏信」、「氏信岩捲」、「濃州清水住岩捲氏宣」などと銘を切る鍛冶として知られる。岩捲の名称については起源が明らかでないものの、「岩捲住」と銘をきったものがあることから、元来は鍛刀地名であったのが次第に刀工の部族名に変化したものとも考えられる。
新刀期にはいると「氏信」は慶長(1596〜1614)、寛文(1661〜1672)、天和(1681〜1683)と数代にわたり鍛刀しており、名古屋築城後は「氏信」、「氏宣」ともに尾張にて鍛刀している。
表題の作者「信貞」は名を「岩捲市郎左衛門」といい、清水住。新刀期に本国美濃にて鍛刀した数少ない刀工である。佩表の平地中頃に@膨れやぶれA埋金B鍛割跡があるのが惜しまれる。
銀無垢はばき、白鞘入
注)『太刀 銘 美濃国大野郡清水住岩捲市郎左衛門尉信貞造 寛永拾九壬午年九月吉日』、南宮神社蔵は、関ヶ原の合戦で炎上した南宮社が、寛永十九年九月、三代将軍家光によって再建された際に奉納されたもので鍛刀地、俗名、制作年月日のある貴重な作品である。
参考文献:得能一男編纂『美濃刀大鑑』刀剣研究連合会発行、昭和五十年十一月