O127407(T5014) 短刀 銘 浪花住信秀 明治二年二月日 特別保存刀剣
新々刀 明治時代初期 (明治二年/1869) 摂津
刃長 22.6cm 内反り 元幅 25.5mm 鎬高 5.5mm
剣形:両刃造りの短刀。鎬筋が張り平肉が豊かについて先重ねも十分。ふくらのついた堅強な造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:平地は小杢目肌がよく詰んだ精緻な鍛肌に、棟側鎬地は柾ごころとなる強固な地鉄。地沸が厚くついて地景が細やかに表出する美しい鍛肌をしている。
刃文:小丁字を連ねた複式の大互の目は箱刃を形成してのたれで繋ぐ。刃縁には良質の小沸がよくついて冴え、沸足が刃先に向かって放射している。棟焼きは直刃となり、下半は沸がより強く、厚く積もり、ほつれ・二重刃ごころ。清涼な匂が刃中に充満して地刃ともにすこぶる明るい。
帽子:湾れをひとつ焼いて乱れ込み、大丸となり棟焼きに繋がる。
茎:生ぶ。目釘孔壱個。勝手下がりに化粧鑢。刃上がりの栗尻張る。指表の上方、棟側には駐槌地『浪花住』、目釘孔下方の平地には『信秀』の二字銘がある。裏の上方棟側には『明治二年二月日』の作刀年紀がある。
 高橋信秀は名を越智庄左衛門という。愛媛県越智郡今治町の産で、作刀銘の年紀によると弘化二年(1845)の生まれ。。伊予今治藩の命により出府し高橋長信の門人となった。優れた技倆を見込まれて長信の娘ハナの婿と縁を結び養子となり義父長信門下の高弟として勤務した。
 征長の役を経て、松江藩主松平定安による君命により師であり義父の長信に随い元治元年(1864)に雲州に下向し鍛造に従事するも生国今治藩の命か、諸般の事情によるものかは定かではないが、翌慶應初年には大阪へと突然出奔して月山貞一に入門している。
 月山門下で二年あまりの修業を積んだ慶應三年頃には一家を成して独立し、生国今治と浪花大坂で作刀に励んでいる。明治三年頃より『晴雲子』の号を用いるようになり、同四年・九年の二度にわたる明治政府の廃刀令布告により鍛刀を断念するものの、後年の明治末期から大正年間にかけて鍛刀を復活した。歿年は不明であるが『新刀古刀大鑑』によると昭和五年(1930)の生存が記述されており長寿であった。
 長信門下で下鍛えなどの代作に終始したためか寡作の刀工として知られ、文久から元治(1861〜64)の年紀作が記されているが現存在銘の作刀は稀有である。地肌は本作のような小杢目肌の他に月山貞一に師事し伝授された鍛法である綾杉肌も観ることがある。
 この両刃造短刀は明治二年(1869)、高橋信秀二十四歳盛年の作品。長信門下に於ける下鍛えの技倆は既に優れ、月山門下での格式のある仕立てを具現化すべく、鍛刀火造りの困難な両刃造りに果敢に挑戦。得意とする丁子乱れと直刃を刃・棟側に見事に焼き入れて出来優れた優作である。
金着はばき、白鞘入
参考文献:
川口渉『新刀古刀大鑑』昭和五年
安部安弘『雲藩刀工高橋聾司長信の研究』黒潮社、昭和六十三年
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣 昭和五十年
短刀 銘 浪花住信秀 明治二年二月日
短刀 銘 浪花住信秀 明治二年二月日
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