O5453(S824) 刀 銘 備前国住長船清光作 天文七年二月日 保存刀剣
古刀 室町時代後期 (天文七年/1538) 備前
刃長68.1cm 反り2.0cm 元幅30.8mm 先幅19.5mm 重ね6.4mm
剣形:鎬造り、庵棟がやや低めにく、鎬筋が高く棟に向かい肉を削いだ造り込み。元に踏ん張りがあり、元先の幅差頃合いについて、やや深い腰反りに先反りが加わり中峰に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:杢目肌に板目交えて肌たち、刃寄りに流れ肌を交じえる。湯走り状の地沸は地斑調について乱れ映りが鮮明に立つ。
刃紋:沸主調の湾れに腰開きの互の目乱れに丁子刃を交え、刃縁に小沸がよくつき湯走りを交えて明るく冴える。刃縁には金線、砂流しが頻りに表出し、刃中は足入り葉浮かぶなど闊達な働きがある。
帽子:焼刃高く、強く乱れ込んで一枚風となる。
茎:生ぶ。一寸程の区送り。目釘孔壱個。勝手下がりの鑢目、棟肉平。茎尻は刃上がりの栗尻。佩表の目釘孔下方鎬地にやや小振りの『備前国住長船清光作』の長銘。裏には『天文七年二月日』の年紀がある。
 戦国時代は応仁の乱(1467-77)に始まり、京都周辺の動乱は全国に波及した。守護大名の権威が衰えると、それらの家臣や新興の豪族が謀反を企てて主君を滅ぼす繰り返しを経た。岡山の戦国時代もまた下克上の連続である。守護大名の赤松氏・浦上氏・三村氏・宇喜多氏らが入り乱れて戦う乱世の時代であった。同時代の刀匠は武士との結びつきが強く、また庇護者でもある。室町期、長船の刀剣は守護や在地の武将により保護されており、そして彼らの注文によって作刀している。とくに赤松・浦上氏と長船刀工の関係は密接であり、戦乱に明け暮れ、明日の勝利を願い、身の安全を図った武将の好尚によくあわせて頑丈な打刀でありながらも丁子を主体とする美麗でかつ迫力のある刃文を焼いている。
 中世末期、所謂室町時代中後期の打刀の体躯の特徴に、永正・大永(1504〜27)頃は二尺〜二尺一寸くらいの、寸法がつまって、片手打刀恰好のややズングリした姿が主体であり、これが享禄・天文(1528〜40)頃になると刃長が二尺二寸台位に延びて、やや身幅が広く中峰延びごころの姿が多くなる。さらに時代が下り、元亀・天正(1570〜91)頃の室町時代最末期になると寸法は二尺三寸以上、身幅広く、元先の幅差があまり開かずに、大峰に結び、茎の寸法も片手打ちから両手打ちへと移行する傾向が窺われ、上半には先反りの付いた頑健な打刀姿に変貌していく。
 長船清光は勝光・忠光らと並び「末備前」と呼称される室町末期の備前鍛冶を代表する名流として知られている。五郎左衛門尉と孫右衛門尉の両者は高名であり、ほかに左衛門尉、与三衛門尉、源五郎などの俗名のある清光がいる。俗名のない作刀もあり、特に天文年紀のものに優れた作品を観ることができる。清光の作刀には彫物が極めて少ないのが特徴である。清光一派は守護大名赤松氏との繋がりが密接で、注文打や入念作には武用を重視した作刀を踏まえながらも、神仏への祈念や覇気溢れる美意識を感じさせるものが多い。同時代長船の作品中、清光は忠光と並んで直刃の作を得意としているが、ほかにも湾れ、湾れに互の目交じり、互の目や皆焼など、赤松氏や家臣の好みに応じて様々な刃文を熟すのも特徴である。
 表題の打刀の作者清光は頭領格の五郎左衛門尉や、後輩にあたる孫右衛門尉清光らとともに名流清光門の全盛期を支えた刀匠とおもわれる。この刀は僅かに区を送りながらも、同時代に流行した片手打ちの寸法よりも寸が延びて、元に踏ん張りがあり、平肉がつき、鎬高く、鎬地をやや削いで、腰反りに深い先反りが加わった美しい姿をしている。この姿は元亀・天正頃の姿に移行する過渡期の形態である。地沸よくつき乱れ映りが立ち、妖艶な美しく冴えた地鉄を呈している。刃文は湾れに互の目・小丁字刃などを交えて、足・葉が頻繁に表出して小沸が厚くつき、所謂、『動』を呈して沸の闊達な働きがある。佩表の平地に一箇所鍛接跡が露見し、佩裏の刃中に一箇所鍛割があるが今回の研磨でよく抑えられており鑑賞の妨げにならない。俗名こそないものの、名のある戦国武士の佩刀にふさわしいもので、清光の優れた鑑識と技量を現代に伝えている。
渡金一重はばき、白鞘入り
参考文献 : 『長船町史 刀剣編図録』 長船町 平成十年
刀 銘 備前国住長船清光作 天文七年二月日
刀 銘 備前国住長船清光作 天文七年二月日
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