剣形:鎬造り、庵棟。身幅重ね共に尋常に元先の幅差つき中峰延びごころ。腰から中程にかけて頃合いの反りがついた所謂、寛文新刀姿をしている。(刀身拡大写真)(押形)
鍛肌:小杢目肌によく鍛えられた綺麗な地鉄。
刃紋:小沸出来、約一寸ほどの直調焼出しがあり、平地全体に出入りの激しい乱れ刃、跳び焼き、棟焼きがあり皆焼となる。
帽子:横手で互の目を焼いて焼き高く、沸深い直調の焼刃は中丸に返り長く棟焼きに繋がる。
茎:生ぶ。目釘穴一個、茎尻は浅い刃上がり栗尻。鑢目切。掃表目釘穴下の棟寄りに大振りの七字銘『豊後住藤原則行』がある。差裏目釘穴下には『真鍛』の二字がある。
豊後国には鎌倉時代初期に定秀・行平の名工が興き、南北朝時代には同国高田の地に筑前左文字の門人友行が出現して豊後高田の始祖として名高く、文明二年(1470)に大山祇神社に奉納された国宝の大太刀
無銘 伝豊後友行 附)野太刀拵(注)をはじめ重要文化財、重要美術品を含め五口の国指定品がある。同工は備前長船に赴き相伝備前を学び、さらには『三島大明神他人不与 貞治三年藤原友行』の在銘作があることから相州鎌倉に出て貞宗に学んだとの説もある。また『豊後国高田住友行 建武二年五月日』の作品や、正平年間(1346~69)、文和二(1353)、康安二(1362)、貞治年間(1362~67)、至徳元(1384)などの年紀作より大凡の作刀期間を知ることができる。南北朝期の『古高田物』と称される一派の多くは『藤原』を冠し、室町期の『末高田』一門は豪族大友宗隣に抱えられ『平』を名乗ることが多いようである。
新刀期に入ると『藤原』姓を復興し、始祖『友行』に倣ってか『行』の字を末尾に用いた工銘が多くなる。天下泰平のもと、武人の好尚に柔軟に応じて山城伝、相州伝、備前伝、美濃伝の各伝に熟して市中から幅広い人気を得た。
本刀の作者、初代則行は寛文頃(1661~)の刀工。阿部三郎右衛門と称し、藍沢正行の門人となり『豊後住藤原則行』、『豊後高田住則行』などの銘を観る。以降、二代長次郎則行(天和・1681~)、三代又次郎則行(元禄・1688~)、四代勘太郎則行(宝永・1704~)、五代孫兵衛則行(享保・1716~)、六代林蔵則行(明和・1764~)、七代孫次郎則次(寛政・1789~)、八代梅太郎則平(天保・1830~)、九代次八則國(嘉永・1848~)と江戸時代を通じて多いに活躍した。
この刀は末相州の広正、綱広あたりに範をとった同工の優品である。『真鍛』の強靭な地鉄に、烈しい皆焼の焼刃を巧みに焼いた相州伝を明示している。
附)茶石目地塗鞘打刀拵(拵全体写真・刀装具拡大写真)
- 縁頭 : 雲龍図、赤銅地、高彫、色絵、無銘
- 目貫 : 恵比寿図、赤銅容彫、色絵
- 鍔 : 橘花弁繋透図、鉄地、無銘
- 柄 : 白鮫着せ、紺色常組糸撮巻
白鞘入り、時代銀着せはばき(白鞘用)、銀地はばき(拵用)
(注)伝 大森彦七(楠木正成を討った武将)奉納。刃長180cm、反り5.4cm
参考資料:本閒薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣 昭和五十年 |