O92337(S8875) 刀 銘 靖憲 昭和十一年七月日 (靖国刀工)
附)陸軍制式拵
580,000円
現代刀 昭和十一年(1936年) 東京
刃長62.3cm 反り1.7cm 元幅29.1mm 元厚7.5mm 先幅17.4mm
剣形:鎬造、庵棟、身幅やや広めに、重ね厚く、元先の幅差あり、反り高く、腰元に踏ん張りが強く、中鋒つまりごごろの猪首鋒にて、優美な太刀姿となる。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目、極めて良く錬れて詰み、地沸細かによくつき、精緻な地景入り、梨子地風の精美な肌合いとなる。
刃文:中直刃を基調として小の互の目・小丁字交じり、足よく入って刃先に煙ごころに長く美しく、匂本位に、小沸つき、ささやかな砂流し入る。表の地に弐カ所ほど跳び焼きがある。
中心:茎生ぶ、刃上がり栗尻。茎孔壱個、鑢目は切。棟肉小肉よく付く。
帽子:横手下で焼刃狭め、直ぐになり小丸に返る。
大正七年(1918)月山貞一、84歳、同九年の羽山円真、75歳、同十五年宮本包則、97歳の相次ぐ没後は新々刀期の掉尾であり、名だたる刀匠がいなかった状況である。昭和八年(1933)は近代の刀剣史上で記念すべき年であり、二つの刀剣鍛錬所が開設された。昭和八年七月五日、衆議院議員の栗原彦三郎(刀匠銘:昭秀)は自邸(旧勝海舟亭)に日本刀鍛錬伝習所を開設、また(財)日本刀鍛錬会は六月二十五日に九段の靖国神社境内に鍛錬所を完成させた。以降十二年間の同会の解散まで8100口の日本刀が誕生し「靖国刀」と呼称されている。
創設には後に主事となった海軍大佐:倉田七郎らが尽力し、草創期の主任刀匠として宮口靖広、梶山靖徳、池田靖光などがいる。鍛錬会では、主として通常の軍刀の制作や陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた御下賜刀(所謂恩賜の軍刀)などの制作を行っている。現在でも鍛錬所の建物は靖国神社境内に残っているが、内部は改装されて茶室になっている。
日本刀の主たる素材である玉鋼や銑鉄の製産は大正末年をもって途絶していたものを靖国鑪として再興し高品質の玉鋼の供給を可能とし、その伝統は現在の財団法人日本美術刀剣保存協会の「日刀保たたら」として蘇り今日の鍛刀を支えている。また伝統の技法を踏襲することに固執し、すべての作品を審査を経た品質管理を実施して水準の確保が堅持された。
小谷靖憲は本名を小谷憲三といい、明治42年1月7日生まれ、主任刀匠である梶山靖徳の甥であり、昭和8年7月8日に先手として入会、昭和10年7月1日、林銑十郎陸軍大臣より刀匠銘「靖憲」を授名、同年に靖国神社奉納刀、11年には盛厚王成年式用御太刀(東久邇宮家)制作の栄誉、昭和14年3月に後鳥羽院700年祭奉賛会奉納刀、昭和15年11月皇紀2600年記念奉納刀、昭和16年には第40代内閣総理大臣でもある陸軍大臣東条英機の依頼により熱田神宮奉納刀製作、その他陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた御下賜刀製作13口などの作歴を誇り、昭和13年より自宅に鍛錬所を設けて「武憲」名で製作したことでも知られる。昭和20年8月15日香川県で終戦を迎える。平成15年3月1日没。
叔父で、師でもある梶山靖徳は横山祐義系に属したこともあり、作風は長船の長光を範としており丁子の足がよく入り、地鉄は青く澄んで冴え、淡く映りが立つなど、匂縁の冴えた刃文を焼き、帽子の焼きは横手の下で焼幅を狭くしており、同工の初期の作域を遺憾なく発揮し、上質の玉鋼を使用した精緻な地金鍛えと、足長丁子の華美な刃文、小太刀風の優美な姿は小谷憲三の入念作であり、生ぶ刃が残る健全たる躯体も好ましい。
昭和 9年制定の九四式陸軍制式軍装拵付帯。銀二重はばき。白鞘付属。