S2798(S8899) 刀 銘 造大慶直胤(花押) 天保十年仲秋 特別保存刀剣
新々刀 江戸時代後期 (天保十年/1839) 武州
刃長 74.1cm 反り 2.3cm 元幅 32.4mm 先幅 23.1mm 元厚 7.9mmm
剣形:鎬造り、庵棟。寸延びて身幅広く、中間反りがやや深い。重ねは厚く、平肉が付いて中峰のびごころ。表裏には樋先の下がった丸止め棒樋の彫り物があり、太刀表の棒樋の下方に素剣、他方には不動明王と魔利支尊天の梵字の彫り物がある。(刀身拡大写真
地鉄:板目肌に刃寄りに流れる肌を交えてよく錬れて肌目たつ。地沸が微塵に厚く付いて潤いがあり、板目肌に沿って太い地景が明瞭に噴出して闊達な働きがある。
刃紋:ごく短く低く焼きだして、小互の目や片落ち風の互の目を連ねて、中頃より上部は互の目は大きく、高低がついて変化し、物打ち上部から浅く湾れ刃て鋩子に繋がる。刃縁には小沸が厚く微塵に積もり頗る明るい光彩を放ち、ここに金線、稲妻や砂流しなどの沸筋が頻りとかかり、刃先に向かい太い沸足が放射し、刃中には匂い深く充満して冴えるなど頗る闊達な働きがある。
帽子:大きく乱れ込んで烈しく火炎風に掃きかける。
茎:生ぶ。大筋違に化粧の鑢目。棟小肉つき、ここにも大筋違の鑢。茎尻は栗尻張り、ここに一文字の隠鏨がある。目釘孔一個。茎鎬筋上太刀銘で大振りの銘、『造大慶直胤(花押』裏には一字分上がって『天保十年仲秋』の年紀がある。『造』と『大』の字を隔てて茎孔があり、年紀の『十』の字が茎孔を配慮してやや小振りとなっている。
 直胤は名を庄司箕兵衛、大慶と号した。細川正義と共に水心子高弟の両雄として並び、さらには新々刀第一の器用人としも高名な最上作優工である。
 安永七年(1778)、出羽国山形城下鍛冶町に生まれ、同地の鎌鍛冶職人であったが、同郷の先輩である水心子正秀を頼って寛政十年(1798)頃、箕兵衛二十歳頃に江戸に出府し、日本橋浜町の秋本家中屋敷にある水心子正秀宅に身を寄せた。享和末年(1803)頃には茅場町の炭問屋の娘と結婚して神田茅場町に所帯を構えて独立したが、文化三年(1806)頃の火災の焼失により現在の台東区和泉町に居を構えたと伝わる。(直胤の『文化八年十二月』年紀(1811)の短刀には『於東都和泉橋』と記している)
 館林藩主、秋本家に師の水心子正秀と共に仕えて文政五年(1822)頃に筑前大掾、晩年の嘉永元年(1848)に上洛して美濃介に転じた。後年には下谷御徒町に定住、安政四年五月二十七日歿(1857)、享年七十九であった。浅草、新谷町本然寺に葬られている。
 半世紀以上に及ぶ作刀期間があり、文化初頭には師同様の濤瀾乱れの作風がみられるものの、師匠の水心子正秀が晩年に唱えた古刀復古論に深く共鳴して、終生を古刀復古の探求と実践に没頭、遂には師の作域を陵駕する傑作を残している。持ち前の器用さと鋭敏な感性、長期間に及ぶ旺盛な探求心により五箇伝のいずれにも通じて作域は広範囲に及んでいる。旅好きでもあり、良質な鉄の探訪研究と受注を兼ねて諸国を行脚しており、各地の駐鎚地名を刻した作品が現存している。文化・文政頃の備前伝と天保年間の相州伝に特に優れた手腕を発揮し傑作が多い。備前伝では長船上位作に私淑した作がありながらも、鎌倉時代の福岡一文字を彷彿させる腰反りで頃合いの姿に純然たる匂い本位の丁子乱れという伝統的な鍛錬焼き入法ではなく、南北朝時代の豪壮な姿に似た体躯に丁子風や片落ち互の目を焼いた、所謂、景光や兼光に私淑した作品が多い。
 本作は、天保十年(1839)、直胤六十一歳、円熟期、相州伝の傑作である。殊の外長寸で豪壮な太刀姿。太刀表は樋先の下がった棒樋の下方に素剣の彫り物。裏には同じく棒樋の下方には不動明王と魔利支尊天をあらわす二つの梵字の彫り物がある。鍛えは大板目よく錬れて地沸が鮮やかにつき、渦巻き状の地景が湧き出す。刃文は小沸厚く絡んだ互の目乱れに砂流し掛かり、鋩子は烈しく乱れ込んでいるなど、相州貞宗に私淑した作域を遺憾なく発揮しており、銘字の運びは鏨太で雄大かつ鏨枕の立った銘字が施されて躍動し、直胤の自信に満ちた気概を表している。洗練された造り込みと覇気溢れる地刃の景色は新々刀屈指であり、直胤円熟期の卓越した技量を実証する屈指の秀逸作である。
金着せ二重はばき、白鞘入り
参考資料:
本間順治、佐藤貫一 『日本刀大鑑 新刀篇二』 大塚巧藝社 昭和四十一年


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