T2627(S829) 太刀 銘 八幡大菩薩 備前国住右馬允次造
□□七年正月日
第五十一回重要刀剣
古刀 鎌倉時代 (建久七年/1196・文永七年/1270・弘安七年/1284)) 備前
刃長 90.4cm 反り 3.4cm 元幅 31.8mm 先幅 13.9mm 元重 8.4mm 峰長さ 21.0mm 茎長さ 24.6cm 茎反り 0.2cm
剣形:鎬造、庵棟。身幅やや広く長寸、元先の幅差目立って開き、腰に踏ん張りがあり、腰反り高く、先反りをくわえて中峰に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:板目に杢交じり、肌立ちごころとなり、地沸微塵につき、地景入り、乱れ映り立つ。
刃文:区上で焼き落とし、直調に小丁字・小互の目交じり、足・葉入り、小沸つき、焼頭より湯走りを断続的に交えて金筋・砂流しかかり、匂い口潤みごころとなる。
帽子:直ぐに小丸ごころ。
茎:殆ど生ぶ(ごく僅かに区送り、先つまむ)栗尻に結ぶ。鑢目大筋違、目釘孔二個、佩表第一目釘孔(元孔)をはさんで棟寄りに太鏨大振りの神号『八幡大菩薩』、以降『備前国住右馬允次造』の長銘がある。 裏の第一目釘孔の下方棟寄りには細鏨で小振りの制作年紀『□□七年正月日』がある。

 備前長船の地では鎌倉時代初期以前に古備前が名声を得て以来、後鳥羽院の御番鍛冶として勃興した一文字派とともに長船派の鍛冶らが名匠を輩出して繁栄を続けてきた。
 長船派の祖である光忠は長船鍛冶の惣領として暦仁頃(1238)から蒙古襲来の文永の役(1274)頃に顕れ、同派の長光・景光の三代にわたり筆頭鍛冶の役割を果たした。
 長船鍛冶らは鎌倉幕府・朝廷の注文による九州防衛に向かう武士の腰物に用いられ、さらには鑑賞上の美的な観点から全国の社寺仏閣に発令された異国降伏の加持祈祷に用いられる太刀等は長船鍛冶らに発注されたと思われる。長光が『左近将監』の官位に叙されたことや太刀に『熊野三所権現』(国宝)の切付銘字があることから社寺仏閣への献上に採り立てられたことを伺うことができる。
 本作は個銘『次』は明らかにしえないが、元号『□□七年』の制作年紀があることから、古くは鎌倉初期の建久七年(1196)にはじまり、中後期の文永七年(1270) もしくは弘安七年(1284)の制作と鑑せられる。二尺九寸八分半と威風堂々たる大太刀は、一寸強の往時の元幅を保持してかつ区上で焼き落とし、反りの高い生ぶの太刀姿をしており見事。
 全国の武家から武運の神として崇敬を集めた『八幡大菩薩』の神号を茎に切付け、『右馬允』の官位を冠することから、蒙古襲来の国難に際し加持祈祷を念じて八幡神社へ奉納した太刀であろう。棟には刃の食い込んだ痕跡があり、華麗な太刀の歴史の一面を物語る。古備前の作とされる、国宝、太刀 銘 『備前国包平作(名物大包平)』に双璧をなす生ぶの太刀姿を保持して且つ同時代の備前物上作の出来映えが明示されており本工の高い技量が窺い知られる。原姿をとどめる鎌倉時代の備前刀の最高傑作のひとつとして第五十一回重要刀剣に指定されている。
金着せ太刀はばき、白鞘入
注)文永5年(1268)、元は日本を属国にするつもりで使節が国書をもって訪日した。この国難に鎌倉幕府・朝廷は北条時宗を執権に就任させて度重なる元からの国書を黙殺したが、文永十一年(1274)の「文永の役」と弘安四年(1281)の「弘安の役」で元と高麗の連合軍が博多に上陸することになる。
注)国宝、太刀 銘備前国包平作(名物大包平)
参考資料:重要刀剣図録
 
太刀 銘 八幡大菩薩 備前国住右馬允□次造 □□七年正月日
太刀 銘 八幡大菩薩 備前国住右馬允□次造 □□七年正月日
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