T26877(W3389) 脇指 銘 河内守国助 附)金梨子地桐文高蒔絵散鞘合口拵 保存刀剣
新刀 江戸時代中期(万治頃・約350年前) 摂津
刃長33.0cm 反り0.4cm 元幅27.9mm 元厚6.0mm
剣形:平造り、庵棟。身幅尋常に寸伸びて浅めの中間反りがつき、切先は鋭利。身幅に比して寸が伸びた小脇指の姿をしている。表の下方には写実的で大振りな火炎不動を高肉彫り、裏には爪付素剣の彫り物のがある。スラリと均整のとれた体躯に威風堂々とした刀身彫刻は迫力がある。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌がよくつんで地沸が柔らかく厚くつき美しい。
刃紋:表の刃文は浅い湾れを主調に処々跳び焼きがあり小互の目、小乱れを交える。上半は焼刃高揚して小沸が厚くつき、跳び焼き、湯走りがかかるなど古風な趣きをしている。裏は丁子刃で重花を交え、拳丁子と称する丁子があり、元には長い焼きだしがある。上半は表裏ともに沸匂いともに深く、厚くなり大乱れ、跳び焼き、湯走りがかかりここに金線が表出して闊達な働きがあるなど如何にも大阪新刀の上々作、所詮『中河内』の特徴を顕著に顕している。
帽子:表裏共に直ぐ調となり大丸に返る。
茎:生ぶ、たなご腹風。刃、棟区ともに深い。目釘孔一個。鑢目は大筋違い。棟肉は平でここに大筋違いに平の化粧鑢がある。茎尻は急角度の刃上がり栗尻。佩表の棟寄り目釘孔下方に五字銘で『河内守国助』と銘がある。茎の佩表、刃区側に鍛割跡がある。
 伊勢神戸(かんべ)の生と伝える初代国助は正保四年五月三十日没(大阪竜海寺過去帳菩提寺に依る)とあり、二代と三代の年齢差により慶長初年頃の生と推考される。京に上り堀川国廣の門を敲いたのは慶長十六から十七年頃か、師である国廣晩年期にあたり、事実上の師は越後守国儔であることは作域や銘振が酷似していることから首肯できる。国廣歿後は活気溢れる摂津に出附して寛永初年頃に河内守を受領。老師である巨匠国廣の伝を洗練昇華させ活気ある独自の作域を樹立し、国貞とともに大阪新刀隆盛の礎を築いた。
 二代の河内守国助は、万治〜寛文頃の大阪新刀の上々作刀工で、華やかな丁子乱れを得意とし、特に拳形丁子と称されている丁子の刃文が握り拳のように重なり合った刃文は彼の創始といわれている。三代続く河内守国助の真ん中に当たるため、俗称『中河内』とも呼称されている。初代国助の実子で慶安元年二十歳で河内守を受領、元禄十一年八月二十一日没(1698)、行年七十二。茎は村正風のたなご腹風をしており、大阪新刀には珍しく、その殆どに化粧鑢を施さない特徴がある。
 本作は中河内、二代河内守国助の寸延び小脇指である。鎬造りの刀および脇指は通常慧眼するものの、本作のような平造りの剣形は極めて稀であり、意匠濃厚で大振りな火炎不動の彫り物もまことにめずらしい。室町時代初期、応永頃の備前刀を模した作品であろう。地鉄は小板目が最もよくつみ、裏の刃文は直ぐに長く焼きだして、華やかな丁子を焼いて、重花交じり、匂口が如何にもよく冴えて、物打ちあたりは湾れ刃を焼いて跳び焼き、湯走りを交え、帽子は直ぐ調となる。
 佩表は腰元に大振りな火炎不動の彫り物を考慮し、浅い湾れ刃を焼いて、物打ちあたりは皆焼風の跳び焼きや湯走りをへて、直ぐ調の帽子に繋がる。火炎の世界に住し、「一切の人々を救うまではここを動かじ」と憤怒の相で盤石の上に立つ不動明王の右手は剣を持ち、左手には羂索(けんじゃく)縄を持つ。高彫りで入念に表現されて所有者守護の念を示し、裏には爪付きの素剣の彫り物がある。この平造り小脇指は中河内の一作風を示すもので、意匠濃厚な彫り物や地鉄の精密さ、および刃文の華やかさと刃縁の沸が鮮やかに冴えていることなどは江戸中期の社会相を如実に示す優品である。
 付帯の金梨子地桐文高蒔絵散塗鞘合口拵は金地の桐文散笠目貫で統一されて、大切に伝えようとする所持者の深い思いを知ることができる優品である。
下貝金着・上貝銀着二重はばき、白鞘付属
参考文献:『日本刀大鑑』 新刀編一 大塚工芸社 昭和41年