| T29552(T8610) 短刀 銘 賀州住兼若 | 特別貴重刀剣 |
| 新刀 江戸時代前期(寛文頃/約350年前) 加賀 刃長28.4cm 内反り 元幅27.8mm 元重6.6mm |
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| 剣形:平造り、庵棟。寸のびて、重ね厚く、わずかに内反り。(刀身拡大写真) 鍛肌:地鉄は精緻な小杢目を基調とし、顕著な柾目肌がよく整い、地錵が柾目に沿ってよくつき縞模様となる。 刃紋:中直刃浅く湾れ、小錵が強くついて匂い口深い。処々ほつれる刃を交えて刃縁に金線かかり、刃中は柾目肌に呼応して砂流しが頻りと流れる。地刃ともに明るく冴えて錵の豊富な働きがある。 中心:生ぶ。茎尻は浅い栗尻形。茎孔壱個、鑢目は筋違。履表に五字銘で「賀州住兼若」と銘がある。 帽子:浅く小丸となり激しく掃きかける。 新刀期の加賀国代表工は兼若が筆頭であることは周知の事である。兼若が藩政時代を通じて士人の好尚に応じて、今尚好事家の賞賛を博している。慶長に入り藩主、前田利長が当国の藤島系の清光、陀羅尼系の勝家・家重を起用したのをはじめ、三代前田利常は美濃国より招聘した兼若・兼巻等を保護奨励して加賀新刀は活況を呈するようになる。初代甚六兼若の作品は重要美術品、「刀 銘 兼若 慶長九」や「賀州住兼若作 慶長拾二年二月日」、前者は美濃打、後者は加賀での鍛刀と鑑せられることから加賀に入国永住したのは慶長10〜11年頃と推量する事ができる。慶長初年頃、本国美濃にいた甚六兼若は前田家のご用命を勤め、同四年の利家没後も御用を勤め、移住を決意したと思われる。初めは兼の字を「魚兼」、慶長13年頃から兼の字は「兼若」特有のものに変わっている。本国美濃における「魚兼」を「賀州住兼若造」と長銘に改めて「兼」の字を備州長船兼光の「兼」に習い改めていることは興味深い。元和五年九月(1619)に越中守を受領して名を「高平」に改めた。 加賀初代甚六兼若の父は四方助兼若(のちに四郎右衛門)といわれ、天正年間に美濃国から尾張犬山城下に移住、志津三郎兼氏の末孫とも伝えられる。また、江州の鉄砲鍛冶国友と兼若の祖は同一で(共に辻村姓を名乗る)、江州国友村辻村四郎右衛門の次男四方助が刀工を目指して美濃国関に行き、大道もしくは氏房あたりに師事して大成、尾張武士である前田家の知遇をえて、子である甚六が慶長十年頃に金沢入りしたとの諸説がある。 本刀は二代兼若又助の作である。初代の三男として慶長十五年(1610)に生まれ。「賀州住兼若」と五字銘に切ることが多く、短刀の作品は希有である。互の目、箱乱れ、逆丁字乱れ、直刃など様々な焼刃を見せ、鍛肌は初期作に見られる板目肌立つものから中期は新刀独特の良く詰んだものから後期の精美な地肌、まれに本作の如く柾目の強いものなどがある。寛文年間は嫡子である三代四郎右衛門兼若も鍛刀に従事したので合作や代作もある。親国貞と真改の関係にも通じる。延宝五年正月(1677)没、行年66。 本刀は寸のびて、身幅広く、重ねが厚い。ほぼ無反りながらも先はわずかに内反り筍状となる。地文は柾目が顕著によく整い刃文も錵が厚くついて帚星のようになっている。国宝 名物桑山保昌 『短刀 高市郡住金吾藤貞吉 元亨二二年甲子十月十八日』 鎌倉時代(1324) 桑山元晴所持、個人蔵は利常が求めて以来、前田家に伝来したもので『享保名物帳』にも所載となっている。藩主利常の所持した『名物桑山保昌』を御用を勤めた兼若又助が慧眼しそれを写したとも考えられる。 銀地金着はばき、白鞘入 参考文献 『加州新刀大鑑』財団法人日本美術刀剣保存協会石川県支部発行、昭和四十八年一月 『短刀の美―鉄(くろがね)の煌き』 佐野美術館 平成二十一年 |
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