T317638(T3195) 短刀 銘 兼舛 保存刀剣
古刀 室町時代後期 (天文頃/1532~) 美濃
刃長 29.0cm 反り 0.2cm 元幅 27.1mm 元厚 5.5mm
剣形:平造り、庵棟高く、元の重ね厚く、ふくら張った大振りの短刀。表裏には茎に掻き流す棒樋の彫物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:板目に杢目・流れ柾を交えて総体に肌立つ。地沸がついて、白けごころの地映りがたつ。
刃紋:小沸出来の互の目焼刃高く、腰の括れた丁子刃、箱がかった互の目、逆がかった尖り刃を交える自由闊達で変化に富んだ刃文。互の目の谷には小沸が厚く凝り、ここに砂流し頻りとかかり明るく冴える。
帽子:刃沸豊かに絡んで乱れ込み、二重刃となり先小丸、返り深く堅く留まり所詮『地蔵帽子』となる。
茎:生ぶ。目釘孔三個(内一個埋)、檜垣鑢、棟肉平。茎尻は刃上がりの栗尻張る。指表のやや棟寄りに大振りな二字銘『兼舛』がある。

 美濃国は大和・山城・備前・相模とともに鍛冶大国に数えられる名流として知られている。これらの『五ケ伝』のなかで美濃伝は他国とは様相を異としており、戦国乱世を舞台として活躍したことから実利を追求した機能美を昇華させた。美濃の関鍛冶らは鍛冶仲間の自治組織である『鍛冶座』を結成し、刀祖神を奈良の春日大社から関の春日神社に分祀して関刀鍛冶の本拠地として奉り崇めた。また『関七流』と呼ばれる善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)を形成して統率し、豪族・戦国大名からの受注を一手に承けて繁栄し全盛期を迎えることになる。
 美濃には関鍛冶ばかりでなく、『末関鍛冶』と呼ばれる諸鍛冶達が、蜂屋(美濃加茂市)・坂倉(坂祝町)・赤坂、清水(大垣市)などの地で作刀している。
 備州長船の地と双璧の規模であった我が国随一の刀剣最大生産地として繁栄した美濃の関鍛冶達は、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康が勝利し徳川幕府泰平の世になると刀剣需要は急速に縮小し、彼らは有力大名の庇護のもとに城下町へと四散して新刀期の刀剣生産を担っていくことになる。
 『美濃刀大鑑』によると、兼舛は奈良派の刀工で天文・永禄頃の兼房系の関鍛冶という。『兼房乱』と呼ばれる腰の括れた大互の目乱れの大乱れを焼いて、鋩子は乱れ込んで『地蔵風』となり堅く留まる関鍛冶の特徴が顕著である。
上貝金着・下貝銀着時代二重はばき、白鞘入
参考文献:
本間薫山、石井昌國 『日本刀銘鑑』、雄山閣、昭和五十年
杉浦良幸・鈴木卓夫 『室町期 美濃刀工の研究』、里文出版、平成十八年
得能一男 『美濃刀大鑑』、大塚工藝社、昭和五十年
 
短刀 銘 兼舛
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