A15827(S5006)

刀 銘 兼法

古刀 安土桃山時代(天正頃/1573~)美濃
刃長 74.0cm 反り 1.8cm 元幅 32.5mm 先幅 23.6mm 元厚 6.7mm

特別保存刀剣鑑定書
『美濃刀押形集』所載品

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:鎬造り、庵棟。一寸程の磨上げながらも二尺四寸四分と長寸で、身幅広くやや深い鳥居反りに元先の幅差さまに開かず大切先に結ぶ威風堂々とした姿。(刀身全体写真
鍛肌:やや肌たちごころの板目鍛えの地鉄は杢目を交えて鎬地は激しい柾目肌。平地は地斑調の地錵が厚くついて煌めき、太い地景顕れる強靭な地鉄をしている。
刃文:元の五寸ほどは湾れて匂勝ちの小互の目が箱刃となり、次第に厚く錵づいて丁子刃、尖り刃を広狭変化を交え賑々しく、処々に湯走り、跳び焼きかかり錵匂ともに厚く深くなる。乱れの谷にが錵が厚く積もりここに金線はいり、刃中砂流し頻りとかかり、地刃ともに明るく冴える、
帽子:表裏とも焼刃高く一枚風となり、小丸地蔵風に返る。
中心:茎は僅かに反りがあり、一寸ほど区送り磨上げて茎尻を僅かに摘まむ。茎尻は浅い栗尻、鷹の羽の鑢目。目釘孔弐個。鎬筋上に大振り、太鏨で独特の字体『兼法』の二字銘がある。

 兼法に出自については赤坂千手院系の奈良派とされ、現存するものでは明応八年紀(1500)の太刀があり事実上の初代とされる。年紀作資料の不足により定かではないが、その銘振りより室町時代末期までの約百年間に五人程の『兼法』を名乗る刀工がいる。
 天文頃の兼法は、宇留間(現在の各務ヶ原市鵜沼)に住したのち越前国一乗谷に移住し『越前一乗住兼法作 天文十年八月日』の作品を遺している。また同じく遠州浜松に移住したものは『遠州住兼法』などと刻した作刀がある。天正頃になると信州伊奈へと出向するものや駿府に移住した『兼法』がある。
 なかでも駿府に移住した『兼法』は家康の信頼厚く、鍛冶頭に任命されたので、一時駿府で鍛刀していた『越前康継』、『南紀重国』や『繁慶』も同工『兼法』の配下にあったものとおもわれる。
 現存する『兼法』の作刀の多くが天文~天正頃(1532~91)にかけてのもので、表裏揃った互の目に箱刃を焼き、帽子は乱れ込んで地蔵風となるものがある。 鑢目については、本造りの刀や脇差は鷹の羽で平造りの短刀は檜垣鑢。
 天正頃の『兼法』は、本作のように太鏨・大振りで『兼』の字の鏨運に特徴的な刻銘を明示するものがある。『兼法』の系譜は江戸時代にになると神戸(現、安八郡神戸町神戸)に鞴を構えて『濃州神戸住兼法』と鏨を刻して寛永頃までつづいた。
 この刀は身幅広くどっぷりと豪壮な体躯をしており、腰の箱刃が表裏揃いごころのなる美濃伝の特徴を有しながらも、物打から切先にかけてはより強く錵づいて湯走り・跳び焼きを呈する。この作風は当時の為政者や勇猛果敢な武将達の婆娑羅の機運と嗜好にもっとも合致しており、相州伝上位作の大磨上げの体躯を念頭に於いた慶長新刀の典型である。佩裏の物打あたり平地に鍛割跡があるものの同工屈指の佳作である。『美濃刀押形集』所載品である。
金着せ腰祐乗鑢はばき、古白鞘入
参考文献:
加納友道『美濃刀押形集』昭和五十二年
得能一男『美濃刀大鑑』大塚巧藝社、昭和五十年
鈴木卓夫 杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』里文出版 平成十八年
杉浦良幸『美濃刀工銘鑑』里文出版 平成二十年
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年