F13099(S1897)

刀 銘 大和守安定

新刀 江戸時代前期(明暦・寛文頃・1655~) 武州
刃長87.1cm 反り1.4cm 元幅32.5mm 先幅21.5mm 元重7.3mm 峰長36.0mm 茎長24.8cm

第二十一回重要刀剣

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:鎬造り、庵棟。二尺八寸八分におよぶ長寸に浅い反りがついて中峰に結ぶ所謂、寛文新刀姿をしている。(刀身全体写真
彫物:表に『魔利支尊天』の神号、裏には『不動明王』の梵字、鎮護国家・仏教守護の神号『八幡』および蓮台の彫物がある。
鍛肌:地鉄は小板目がよく詰み清涼な地錵が厚くついて美しく煌き、板目の地景が表出する強い地鉄をしている。
刃文:焼刃の広い大のたれに覇気に満ちた互の目・丁子刃・逆がかった丁子・箱刃・矢筈刃や尖り刃を交えて広狭変化がある。平地には処々湯走り状の飛び焼きがあり、腰元には島状の飛び焼きがある。刃中匂深く充満し互の目の沸足太く入り、砂流し頻りとかかり、上部物打ちはより強く沸づいて金筋はいる。総体に広狭・刃文変化が豊かで賑々しく地刃ともに頗る明るく冴える、
帽子:表は乱れ込んで互の目を焼き大丸、裏は同じく互の目を二つ焼いて中丸となる。
茎:同工の特徴顕著な茎仕立ては刃および棟区ともに深く仕立ててほぼ無反りで先細って栗尻に結ぶ。同工典型である筋違の鑢目は掛け始めから徐々に傾斜が急となる大筋違。目釘孔一個。佩表目釘孔下の棟寄りに大振りの五字銘『大和守安定』がある。

 大和守安定は新刀上々作にして良業物、俗名を冨田(とんだ)宗兵衛もしくは飛田(とんだ)宗兵衛という。従来の見識では同工の出自は越前とされ二代康継の門人とされていたが、近年の研究では紀州国の生まれであることが判明した。
 寛文七年五十歳作と銘した作刀があることから、元和四年(1618)の生まれ。紀州石堂派の安広(康広同人)と有縁で、慶安初年(1648~)に出府して神田白銀町に鍛冶場を構えたという。同工の作風や茎仕立て、さらには幕府の試役を勤めた山野一門による裁断銘の諸条件から鑑みると、和泉守兼重に師事したことが妥当であり、同門と考えられる中曽祢虎徹に影響を与えたともいう。
 はじめ大和大掾、のち大和守を受領し『古今鍛冶備考』、『懐宝剣尺』、『山田浅右衛門選』では良業物に指定されてその斬れ味の優秀であることが実証され、『日本刀工辞典・新刀篇』では『山田浅右衛門選では良業物なるも、おそらく切れ味に於ては随一の作者であらう』と記されている。「唐竹割三ツ胴切落 山野加右衛門尉永久」や「天下開闢以来五ツ胴永久六十四歳」の截断銘のはいった作刀が多いのが特徴である。 長曽祢虎徹に勝るとも劣らぬ斬れ味の良さで寛文新刀を代表する名工として江戸武士たちの信望厚く一世を風靡した。また幕末期には新撰組一番隊組長及び撃剣師範の沖田総司が愛用したことでさらなる名声を馳せた。
 日本刀銘鑑によると承応二年(1653)~寛文十三年(1673)の年紀作がある。「大和大掾安定」「大和守安定」「富田大和守安定」「飛田大和守宗兵衛尉安定」「於武蔵國豊嶋郡大和守安定」「大和守源安定」などと銘を運ぶ。
 この刀は殊の外長寸で、身幅が広く重ね厚く浅く反って中鋒に造り込まれた江戸新刀の典型である。地鉄は板目肌詰んで美しく地沸厚くついて鉄色明るく地景が微塵について肌目が強く起きた力強い地鉄を呈し、焼刃の高いのたれに互の目乱、同工の得意の箱刃、小互の目を交えて放埓に乱れ、焼刃には見事な小沸が微塵について明るく冴え、金線、砂流しが賑々しくかかり覇気に満ちており刃味の良さを首肯できる。
 本作は特別な需によるものであろう、二尺八寸八分にもおよぶ長寸は現存する安定の作刀中最も長大で、神号彫物を施す斬新な作風は安定の多才な作域を示して出来優れ、威風堂々たる体躯は見るものを圧倒する。昭和四十八年、第二十一回重要刀剣に指定された同作中の傑作。
金着せ一重はばき、白鞘入
参考資料:
重要刀剣図録
本間薫山・石井昌國 『日本刀銘鑑』 雄山閣 昭和五十年
佐藤寒山 『江戸新刀名作集』 便利堂 昭和四十四年