A21592(W5090)

脇指 銘 於南紀重國造之

新刀 江戸時代初期(寛永頃/1624~) 紀伊
刃長 48.0cm 反り 1.3cm 元幅 31.7m 先幅 24.3mm 元厚 7.5mm

特別保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造り、庵棟高く、鎬筋凛として高めに棟に向かって肉を削ぐ。身幅は元先ともに広く併せて元先の重ねが厚くついた豪壮な造り込み。腰元・茎に反りがついて中峰のびる所謂、慶長新刀脇指の典型的な体躯をしている。(刀身拡大写真地鉄:板目肌がよく錬れて処々流れて肌立ち、地沸が厚く微塵について耀き板目の地景が明瞭に顕れる。刃紋:広直刃浅く湾れ処々ほつれる刃を交え、物打ち横手下の沸はさらに厚くついて平地に溢れんばかりとなり頗る明るい。刃縁の沸は目映い光彩を放ち、厚く沸づいた刃中には鍛肌に呼応する太い地景が刃縁の沸を切り裂いてほつれ、金筋となり美しい。帽子:強く沸づいて掃き掛け火炎となり中丸に返る。茎:生ぶ。刃長に比してやや小振りの茎は刃側を削いで棟側やや反りがついて浅い栗尻に結ぶ。勝手下がりの鑢目。平棟肉には浅い勝手下がりの鑢目がある。大きく穿かれた目釘孔の下方鎬地には駐鎚地を添えた太鏨でやや小振りの長銘『於南紀重國造之』がある。 重國は大和国手掻の出自。慶長年間に徳川家康の召命により兄の包國とともに駿府静岡で鍛刀した。越前康継、野田繁慶らとともに徳川家康に召し抱えられた新刀最上作の誉れ高き名工である。 同工は元和五年七月、家康十男頼宣が紀州に転ずるに随伴して六十石の高禄で和歌山城下へ転住、紀州徳川家の抱工となった。以降は『於南紀重國造之』、『於紀州和歌山重國作』等と銘をきる。元和五・七・八、寛永七迄の年紀作があり、重要文化財一口、重要美術品七口が指定されている。 重國の作刀中、この脇指のように量感溢れて身幅が広く、両区深く、元先まで厚い重ねに身幅の幅差がほとんどない異風堂々としたものがある。 直刃出来の作刀は作位高く、一見すると鎌倉時代の手掻包永に見間違うほどの出来栄えをしながらも、所謂『慶長新刀』と呼称される異風堂々たる体躯に相州伝の鍛練法を採り入れている。刃縁の精妙なる小沸は溢れんばかりに厚く積もり一分は地に溢れて銀河の如く明るい耀きを放つ。完存の茎は錆味優れて勝手下がりの鑢目明瞭。大きく穿かれた目釘穴に太鑚で力強い鏨運びの銘字は初代南紀重國の典型。新たなる桃山文化の気風を尊ぶ徳川家康に重用された南紀重國の、新刀随一と賞揚された至高の技倆を首肯する傑作である。最上研ぎ、共柄木はばき、白鞘入(鞘書きあり)
参考資料:
本間順治、佐藤貫一『日本刀大鑑・新刀篇一』大塚工藝社、昭和四十一年

本間薫山、石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年