A3012(W7595)

脇指 銘 国助 (石見守) 附)潤石目地塗鞘脇指拵

新刀 江戸時代前期 (寛文頃/1661~) 摂津
刃長 46.9cm 反り 1.0cm 元幅 31.4mm 先幅 22.7mm 元重 6.9mm

特別保存刀剣鑑定書

附)潤石目地塗鞘脇指拵

剣形:鎬造り、庵棟高く、元の身幅広く元先の幅差さまで開かずに物打張って大峰に結ぶ。手持ちどっしりとした豪壮な体躯。(刀身拡大写真
地鉄:板目肌に杢交えて肌立ち所謂『ざんぐり』とした鍛肌。平地には地沸が厚く付いて板目状の地景が織りなす強靭な地鉄。
刃紋:沸出来の小互の目交えた浅い湾れで元を焼き出し、中頃より焼き徐々に高くなり刃縁には小沸厚く積もり、物打ち付近は焼刃さらに高く二重刃ごころにやや粗めの沸が厚く積もる。刃中匂口深く、太い互の目の沸足が刃先に放射して、刃縁には長い沸筋と砂流しかかる。
帽子:焼刃高く、強く掃きかけて乱れ込み一枚風となり返り深く留まる。
茎:生ぶ。平地は切鑢、鎬地には勝手下がりの鑢目。棟肉平でここには大筋違の鑢がある。茎尻は入山形。目釘孔壱個。佩表の鎬筋にはやや大振りの鏨で『国助』の二字銘がある。
 『石見守国助』は伊勢亀山の産。姓を小林、名を源之丞という。近江石堂派に属する刀工で堀川国広門、初代『河内守国助』の実弟である。兄弟ともに国広晩年の門人となり、国広歿後は師範代の国儔や先輩の弘幸に学んだと推量されている。国助兄弟は寛永七年(1630)頃に大阪伏見両替町に鞴を構えて一家を創始。助廣、国輝、国康などの優工を輩出し大阪新刀の創始鍛冶としての礎を築いた。
 初銘を『石見大掾藤原国助』と刻してのちに石見守に転じる。後年は伊勢神戸に移し『勢州神戸住石見守藤原国助』などと銘を運ぶ。一説に寛文12年(1672)67歳で歿したという。
 国広門下の茎鑢仕立ては通常勝手下がりであるが、同工『石見守国助』の鑢目は初期の大掾銘の鑢目が平地・鎬地ともに「切鑢」で、石見守へと転じてからは平地を「切鑢」、鎬地は「勝手下がり」に仕立てる他に類をみないものである。国広門の先輩、『弘幸』が同様の「切鑢」茎仕立てをしていることから師弟関係を窺い知ることができよう。
 同工は兄で頭領でもある『河内守国助』門下での長い勤務に努めたためか、在銘作はまことに稀有で資料的価値が高い。兄『河内守国助』との合作刀や国広門下の先輩、出羽大掾国路との合作がある。
 本作は国広一門の得意とする南北朝様式に範を採る強靭な体躯に焼刃の広い沸本位の湾れを焼いて帽子の焼刃も広く一枚風になる作域はさながら郷義弘あたりに範を採ったもの。任官受領を謹んで二字銘を茎に刻した本作は、二代目の市之丞石見守国助の補佐をしていた頃、後年の作刀であろうと考えられよう。
 重ね厚く、刃区豊かに大峰に結ぶ健全な体躯に、茎の錆味優れて鑢目鮮明。鏨枕も明瞭な『石見守国助』の手によるこの優刀は、刃区上10㍉ほどに極僅かな欠けを意図して遺す研磨を施して貴重な生ぶの姿を保持している。

附)潤石目地塗鞘脇指拵 (拵全体写真)・()・拵各部拡大写真
  • 縁頭:一富士二鷹三茄子図、真鍮石目地、高彫色絵、銘:光長(花押)
  • 目貫:烏骨鶏図、赤銅容彫、色絵
  • 鐔:雅楽 笙楽太鼓に獅子舞図 鉄地、丸形、地透、肉彫、金象眼、無銘
  • 小柄:楓図、鉄槌目地、銀象嵌、無銘
  • 柄:藍鮫着萌葱色諸捻菱巻
  • 鞘:潤石目地漆塗、勝虫図鉄折金、同図鉄地栗形、同図鉄鐺、無銘
時代銅二重はばき(下貝銀着せ、上貝金着・上貝表金着は剥落)、 白鞘付属
参考文献:飯村嘉章『新刀大鑑』巻之一,平成五年