A48527(W5012)

脇指 銘 奥州名取住安次 附)黒石目五月雨潤塗分鞘脇指拵

新刀 江戸時代前期(万治~寛文頃/1658~72)陸奥・武州
刃長 51.1cm 反り 0.7cm 元幅 28.8mm 先幅 20.5mm 元重 6.2mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形: 鎬造り、庵棟。刃・棟双方の区深く、鎬筋高く重ね厚くついた堅強な造り込み。やや浅めの反りがつき、元身幅広く元先の幅差頃合いについてやや延びごころの中峰に結んだ所謂、寛文期に流布した勇壮な体躯。(刀身拡大写真
鍛肌:鉄色青く冴え、杢目に板目肌交えて肌たつ強靭な鍛肌。地沸が厚くついて硬軟鍛練の肌目に沿って地景太く入る。
刃文:沸深く、厚く絡んだ焼刃は元を直刃で短く焼きだし、刃区で大互の目を焼いて浅く湾れて箱刃と腰高の大互の目を広直刃で繋いで中頃に飛び焼きがある。物打ち辺りは背の高い丁子や尖り刃を交えた賑やかな大乱れ。刃中は清涼な匂い充満して澄み、刃縁の谷には沸が厚く凝り、此所には砂流しかかる。互の目の沸足は刃先に放射して沸匂の豊かな働きで頗る明るく冴えている。
帽子:表は湾れて中丸、裏は大互の目を焼いて先大丸となり、深く焼き下げて堅く留まる。
茎:生ぶ。目釘孔壱個。入山剣形に結ぶ。大筋違いの鑢目、棟小平でここにも大筋違の鑢目がある。佩表の鎬筋には神妙な鏨運で『奥州名取住安次』の七字銘がある。

 伊達家六十二万石を有する仙台城下の安次は名取川北岸の名取郷の産。慶長初代、遊慶『倫祐』の子で二代『安倫』の弟、名を大友藤八朗という。明暦二年(1656)、次兄『安倫』(注)とともに江戸にでて法城寺正富に学び、のち大和守安定門人となった。『奥州名取住安次』、『奥州仙台住藤原安次』などと銘を刻し、江戸神田白銀町での駐鎚作刀がある。後年は摂津初代河内守国助次男、休鉄国次の養子となり同家を継いでいる。
 この脇指は尚武を尊ぶ江戸詰武士の好尚に沿った頃合に先反りが就いた質実剛健な体躯に、鍛杢目肌強く締まり鎬地は柾目顕著。沸本位の角張った大互の目乱れを豪快に焼き、尖り刃を交えて乱れの谷は直刃調になるなどの作風は師伝の作に肉迫する優品である。

附)黒石目地五月雨潤塗分鞘脇指拵(全体写真  ・ / 刀装具各部拡大写真
  • 縁頭:縁 丸に九枚笹紋図 赤銅霰魚子地 高彫 頭 同図 同磨地 銀色絵 無銘
  • 目貫:那須与一扇の矢図 赤銅容彫色絵
  • 鐔:熨斗透図 鉄地竪丸肉彫 地透 銘 江府住美正
  • 柄:白鮫着 茶常組糸諸撮菱巻
銀着時代はばき、白鞘付属

(注)三代藩主『伊達綱宗(伊達正宗の孫)』は所謂『伊達騒動』にて、万治三年(1660)弱冠二十一歳で強制隠居。余暇を以て伊達家品川別邸にて、同じく大和守安定同門の仙台二代『安倫』をお相手鍛冶として約二年間作刀したと伝えられている。

参考文献:
『仙台藩刀匠銘譜』(財)日本美術刀剣保存協会、宮城県支部、昭和四十八年 余目安倫家系図

石井昌國、本間薫山『日本刀銘鑑』、雄山閣、昭和五十年