E31940(W5010)

脇指 銘 兼成作

古刀 室町時代後期 (天文頃/1532~) 美濃
刃長40.6cm 反り0.3cm 元幅30.6mm 元重6.4mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造、庵棟。一尺三寸四分と寸が延び、元身幅広く、元の重ね厚く、僅かに中間反りがついた均整のとれた剣形。(刀身拡大写真
彫物:表には三鈷柄剣に宝珠、裏には不動明王の梵字に護摩箸、爪の彫物がある。
鍛肌:板目に小杢目交えて肌立ち、棟寄り柾目流れる強靭な鍛肌。
刃紋:ごく短く焼きだして尖り刃の腰刃を焼き、焼刃広く表裏揃いごころの湾れに腰高の丁子刃を二つ連ねて箱刃を配し、さらに複式大互の目を焼く。物打付近は沸さらに厚くついて匂深くなり頗る賑やかな大乱れ。
帽子:焼刃広く強く掃きかけて先火炎風となり深く焼き下げ、棟には処々棟焼がある。
茎:生ぶ、目釘孔二個(内一個埋)。刃区深く、刃側を削いで舟底風となり栗尻に結ぶ。鑢目は檜垣で棟肉は平、此所には勝手下りの鑢目がある。指表の生ぶ第一目釘孔下方、第二目釘孔上にかけて大振りな鏨運びの三字銘『兼成作』とある。

 『日本刀銘鑑』によると、『兼成』は天文頃(1532~)の関の地に鞴を構えた刀工で「かねなり」もしくは「かねしげ」とよみ、天文二年から七年の年紀作がある。天正頃にもう一人いて今川氏の地盤駿河に移住して『駿州住兼成』と銘を運ぶという。
 殊の外大振で豪壮たる段平腰刀は室町時代後期、天文頃(1532~)の関鍛冶『兼成』による作刀。腰元に尖り刃で腰刃を焼いて刃文表裏揃いごころとなり、物打ち上半から切先にかけての焼刃は更に広く、強く沸づいて躍動感に溢れる。
 斎藤道三が国首として君臨する美濃国豪族の需であろう。不動明王がもつ三鈷柄剣は厄除けの密教法具で邪気などを寄せ付けないと云われ、如意輪観音菩薩の持つ宝珠は意のままに様々な願いを叶えるという。梵字蓮台爪の上には不動明王の加護を祈る護摩箸と梵字の陰刻がある。これらの彫刻はは装飾的な美しさだけでなく、密教への深い信仰心を感じ取ることが出来る。
山銅地金着祐乗鑢はばき、白鞘入

室町期後半に入ると、足利幕府の弱体化に伴う政情不安から応任の乱(1467~77)に端を発する戦国動乱の時代となり、利器としての日本刀の需要が急速に高まる。関鍛冶らは鍛冶仲間の自治組織である『鍛冶座』を結成し、刀祖神を奈良の春日大社から関の春日神社に分祀して関刀鍛冶の本拠地として奉り崇めた。また『関七流』と呼ばれる善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)を形成して統率し、豪族・戦国大名より受注を一手に承けて繁栄し全盛期を迎えることになる。
また美濃国には関鍛冶ばかりでなく、『末関鍛冶』と呼ばれる諸鍛冶達が、蜂屋(美濃加茂市)・坂倉(坂祝町)・赤坂、清水(大垣市)などの地で作刀している。
長船の地と双璧の規模であった我が国随一の刀剣最大生産地として繁栄した美濃の関鍛冶達は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康が勝利し、徳川幕府泰平の世になると刀剣需要は急速に縮小し、彼らは有力大名の城下町へと四散して新刀期の刀剣生産を担っていくことになる。

参考資料:
得能一男編纂『美濃刀大鑑』刀剣研究連合会発行、昭和五十年十一月
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』里文出版、平成十八年
本間薫山・石井昌国『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年