A68095(W3395) 脇指 銘 和泉守藤原国貞 附)黒皺革塗鞘脇指拵 |
特別保存刀剣 | |
新刀 江戸時代初期(寛永頃・1624~)摂津 刃長 48.2cm 反り 1.2cm 元幅 29.7mm 先幅 20.5mm 元重 6.2mm |
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剣形:鎬造り、庵棟、身幅広く重ね厚く元先の幅差さまに開かずに中峰に結ぶ慶長新刀姿。(刀身全体写真) 鍛肌:小板目肌詰んで、地沸が微塵につき地景が頻りに顕れる地鉄の鉄色が頗る冴える。鎬地は柾目肌。 刃文:元を長く京焼きだして互の目・湾れ乱れ・直刃の小沸が付いて匂深く、刃縁はいちだんと明るく冴えて足が頻りと入る。鎬地には湯走りごころの跳び焼き、棟焼きがあり、豊かな沸の働きがある。。 中心:生ぶ。目釘穴壱個。茎の刃方は舟形風に肉を卸し先を細めて刃上栗尻に結ぶ。鑢目は角度の深い大筋違。棟肉平でここにも大筋違の鑢目がある。佩表の鎬地寄りには『和泉守藤原国貞』の長銘がある。 帽子:横手下で焼き込んで直調に中丸となりやや深く返って僅かに棟焼きがある。 国貞は天正十八年(1590)、宮崎県宮崎郡木花村木崎の西教寺2代目住職の道和法師として生まれた。はじめ『良慶』を名乗り法嗣を受け継ぐ身であったが、一念発起して刀工を志し、同郷先輩を頼り上洛し、堀川国広門に学んだ。師、国広が慶長十九年(1614)歿したときは二十五歳の青年だったという。 国広歿後は先輩の越後守国儔に学んで研鑽を積み、元和六年頃(1620)に同門同士の河内守国助と相携えて大坂に移住、大坂新刀の創始者となった。元和九年九月十二日(1623)、三十四歳の時に『和泉守』を任官。晩年には入道して『道和』と号した。慶安五年五月五日歿(1652)、享年六十三歳。上々作、大業物として名高い。 この脇指は江戸時代初期の大阪の陣間もない時期でもあることから、所謂『慶長新刀』と呼ばれる勇壮な体躯をしている。国広一門の鍛肌は『ざんぐり』と表現される目立った板目肌はさほど目立たずに、清涼な小板目肌の鍛肌を呈しておりふくらに沿う直調の帽子であることから、大坂新刀の黎明期を明示する同工の典型作である。浅い湾れに互の目を交えた堀川流の焼刃はいちだんと明るく冴えて、茎の形状および大筋違の鑢目も明瞭で銘の鏨運び書体も完存の優品である。鎬地・棟・帽子の返り付近に跳び焼きを交えるのも同工の特徴であり好ましい。国広及び同門先輩の脇指は平造寸延びのものが多くみられるが、鎬造りの作刀は末輩にあたる国貞・国助・国淸等に限られる感がある。 附)黒皺革塗鞘脇指拵(拵全体写真・刀装具詳細写真)
参考文献:本間順治・佐藤貫一『日本刀銘鑑 新刀篇一』大塚工藝社、昭和四十一年 |
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