H1594(W3220) 寸延短刀 銘 正重作(千子) 附)臙脂溜塗鞘合口拵 | 特別保存刀剣 日本刀随感 古刀篇所載 三重県刀工・金工銘鑑所載 |
古刀 室町時代末期 (天文頃・1532〜) 伊勢 刃長31.2cm 反り0.3cm 元幅30.0mm 重ね5.9mm |
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剣形:寸延びた平造りの体躯。庵棟、身幅広く尋常な重ねに僅かに反りがつく。先ふくらについて張り、威風堂々とした姿をしている。(刀身拡大写真) 鍛肌:板目肌立ち流れ、湯走り状に地沸ついて淡く地映りがたち古雅な趣きがある。 刃文:沸出来の互の目・複式互の目は表裏よく揃い箱がかり、刃縁締まりごころに明るく冴え、一部の沸は焼頭より地に溢れて湯走りとなる。上半の刃文は湾れ刃となり沸より強く、匂口さらに深くなり、刃縁には金筋・砂流し頻りとかかり僅かに飛び焼きがある。 帽子:のたれて中丸に返り地蔵帽子となる。先はほつれて掃きかけ、火炎風に揺れる。返りは乱れ込んで棟に深く焼き下げる。 茎:生ぶ、顕著なたなご腹。目釘孔一個。鑢目は切り。棟肉豊かについてここには勝手下がりの鑢目があり他方刃側の肉置きは鋭い。茎尻は急角度の剣形。佩表の棟寄り上方には太鏨で大振りな三字銘『正重作』がある。 室町時代中期以降の東海道では、伊勢の千子派、駿河の島田派や武州の下原派らの一派が中核となり、後期になると尾張の織田、豊臣、三河の徳川、駿河の今川、甲斐の武田、相州小田原の北条ら豪族の出現で一層の活況を呈している。 千子派は『如手引之抄』によると、美濃国赤坂兼村(一説では兼春)の子と伝えられ、桑名の住。村正(俗名を彦四朗)を始祖として三代まで続いたという。最も古い裏銘のある作品は文亀元年二月日(1501)である。村正の屋敷跡は現在の桑名市東方村にあるという。『千子』の派名の由来については、初代村正の母が千手観音に祈願して授かった子であったことから、”千手観音様の子”を略して『千子』と称したともいわれている。また後代の村正は山城の平安城長吉との門弟関係があるといわれている。 正重は千子派を代表する刀工で、初代村正の子、娘婿、もしくは門人とも伝えられ、他説では三代村正の子で初銘、村正を名乗りのちに正重と改名したとあるが定かではない。初代を永正、二代は天分頃といわれる。銘は『正重』もしくは『正重作』と切り、『正』の字が右肩上がりになるのが特徴である。初代正重の作とおもわれる作品の茎尻は刃上がりの栗尻でやや小振りな銘を切るのに比して、二代の正重は時代が降りるに従い茎仕立ては極端なたなご腹になり、茎尻は剣形、さらに誇張される。銘もやや大振りで『正』の字は極端な右肩上がりになる特徴がある。一説によると勢州鹿伏兎平ノ沢(三重県鈴鹿郡関町金沢・現在の亀山市)に居住したといわれる。刀は比較的少なく短刀や寸延物が多い。『河内 初代村正の一門、一説には正重の弟である『 表題の短刀は二代正重の作である。村正より剣形は大振りとなるものが多く、地鉄はやや大肌ごころとなる傾向があり、沸主調の焼刃は表裏が揃いごころとなり、特徴的なたなご腹の茎や剣形の茎尻などは究めて威風である。これらの作風は村正のそれに伯仲し、より誇張されているものが多い。豪族の需めに応じ、南北朝時代の広光や秋広に私淑した相州伝本位の本作は千子派の優質を明示している。日本刀随感 古刀篇所載、三重県刀工・金工銘鑑所載の優品である。 たなご腹茎は末相州物、武州下原物、駿河の島田物などに共通するものであり、表裏揃いごころの刃や白気ごころの映りは美濃関の和泉守兼定の『伊勢於山田是作』や『兼房』、尾張の『若狭守氏房』などにも見受けられ、伊勢、尾張、美濃、駿府、武州におよぶ美濃伝共通の鍛錬法の鍛冶圏を形成しており相互の技術交流を窺い知ることができる。 附)臙脂溜塗鞘合口拵:(拵全体写真・表・裏 / 刀装具詳細写真)
参考文献 本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑 古刀編三』 大塚工藝社 昭和四十四年四月十五日 佐藤寒山『伊勢の刀工』 大塚工藝社 昭和三十八年五月十日 片岡銀作『日本刀随感』山縣印刷所 昭和五十七年八月三十日 田畑徳鴦『三重県刀工・金工銘鑑』三重県郷土資料刊行会 平成元年十二月十五日 注)天下三名槍 - 御手杵・日本号・蜻蛉切 |
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