S746(S831) 金梨子地七曜紋金切金金蒔絵鞘糸巻太刀拵 (九鬼家旧蔵品)
附)刀 無銘 末備前(伝長船祐定)
特別保存刀装具
特別貴重小道具
保存刀剣
金梨子地七曜紋金切金金蒔絵鞘糸巻太刀拵 (九鬼家旧蔵品)
佩表全体写真佩裏全体写真刀装具拡大写真
総金具(兜金、猿手、縁、足金物、柏葉、石突) 七曜紋散図 赤銅魚子地 高彫 金色絵 無銘
目貫 七曜紋三双図 容彫 金色絵
鐔 葵形 赤銅魚子地 金色絵耳、大切羽 二枚 七曜紋散図 赤銅魚子地 高彫 金色絵 四方猪目透 無銘
鞘 金梨子地七曜紋 金切金 金蒔絵
柄 金襴着 金茶色糸平菱巻
糸巻太刀拵総長 97.5cm
  刀 無銘 末備前(伝 長船祐定)
古刀 室町時代末期 (天正頃/1573~) 備前
刃長67.8cm 反り2.3cm 元幅29.0mm 先幅19.5mm 元厚6.2mm
 糸巻太刀拵はi将軍以下旗本までが礼服着用時に小さ刀と共に用いられた。柄および鞘口から足金物辺りまでを錦包として糸で巻いたことによる呼称で、鞘巻部分を渡巻という。総金具は赤銅魚子地に金の家紋を散らしている。鐔は葵形で両面には赤銅魚子地に金の家紋を配した大切羽に、金着せの中切羽と小切羽さらには赤銅地の簓切羽が掛かる。鞘は金梨子地や金沃懸地とし切金、蒔絵、雲母などを用いて家紋を配している。
 この糸巻太刀拵は摂津三田藩九鬼家の旧蔵品。赤銅魚子地総金具には七曜紋が金高彫され、粒の揃った金梨子地塗の鞘は金切金と蒔絵の手法で七曜紋が配され、腰元を錦で包んで金茶色糸の渡巻、同錦包の柄には三双の七葉紋が付されて同色の平糸で菱巻きされている。葵形太刀鐔は大切羽に同九曜紋が配されて、中、小、赤銅簓切羽にいたるまで完存の優品である。

  附帯のの刀はこの糸巻太刀拵に収めるために磨上げられたのであろう。室町時代後期頃の末備前の祐定あたりの作刀と鑑定された。
剣形:鎬造り、庵棟。磨上げながらも踏ん張りがあり、腰元でやや深めの反りがつき先反りが加わる。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌処々流れ肌目たつ。地沸ついて地景入り、地映りがある。
刃紋:互の目乱れ,処々丁子刃交えて刃縁沸つき、互の目足刃先に放射して砂流し、金線かかる。
帽子:湾れて小乱れとなり中丸に返る。
茎:磨上げ無銘。目釘孔弐個。茎にも反りがある。磨上げ鑢目は勝手下がり。茎尻は切。
時代金着太刀はばき(新作金着せ太刀はばきもあり)、新作白鞘入(古鞘もあり)

 九鬼一族の活躍は九鬼嘉隆(1542〜1600)に代表されよう。嘉隆は九鬼水軍を率いて織田信長や豊臣秀吉に仕え、鳥羽3万5000石を領する大名となる。織田信長と本願寺が戦った「石山合戦」において、鉄甲船を率いて毛利水軍を屈服せしめた。以降九鬼家は戦国最強の水軍として各地を転戦し、さらには文禄慶長の役では豊臣秀吉による朝鮮出兵に随行し朝鮮にまで出兵して活躍した。
 嘉隆の子である守隆は関ヶ原の合戦で東軍について活躍、その功績によって加増されて本領である鳥羽5万6000石を領した。
九鬼守隆の代から九鬼家の家紋として『七曜』が用いられた。『七曜』は三熊野は密教の聖地で権現の証とされ、禍を払い福を招く家紋として九鬼家の主紋として用いられるようになったという。
 守隆は五男の久隆を後継者にしようとしたが三男の隆季から反発をうけ幕府より介入をうけ九鬼家は志摩国の領地を失うこととなる。久隆は摂津国三田藩3万6000石に、隆季は丹波国綾部藩2万石に支封された。以降水軍を保持せず陸に上がることとなり廃藩置県までそれぞれの領地で存続した。


参考文献 :
本間薫山、石井昌國 『日本刀銘鑑』 雄山閣、昭和五十年
 
金梨子地七曜紋金切金金蒔絵鞘糸巻太刀拵 (九鬼家旧蔵品)
金梨子地七曜紋金切金金蒔絵鞘糸巻太刀拵 (九鬼家旧蔵品)
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