T246211(S1984) 刀 無銘 二字国俊
附)黒皺革包太刀拵
 第三十五回重要刀剣
特別保存刀装具
古刀 鎌倉時代中期 (正元頃/1259〜)山城
刃長63.8cm 反り1.5cm 元幅28.7mm 先幅18.5mm 元厚6.7mm 峰長2.6cm 茎長17.1cm
剣形:鎬造、庵棟。身幅重ね共に頃合い、中峰猪首風につまる。(刀身拡大写真
彫物:樋先の上がる棒樋を茎に掻き通す。
鍛肌:小板目肌つみ、地沸つき、細かな地景入り乱れ映り立つ。
刃文:丁子に互の目交じり、足・葉入り小沸よくつき、砂流し・金筋かかり、匂い口明るく冴えて上半に棟焼かかる。
帽子:浅くのたれて小丸に返る。
茎:大磨上、先切り、鑢目切り、目釘孔参、無銘。

 『国俊』には『来』を冠しない所謂『二字国俊』と、『来国俊』と三字に切るものがあり、両者の関係については同人・兄弟・親子の諸説があり未だ定説がない。
 同人説の論拠としては、『二字国俊』には弘安元年(1278)の年紀を有する太刀を採り上げている。徳川美術館所蔵、重要文化財指定の太刀『来国俊 正和四年(1315)十月廿三日□□七十五歳』行年の添えられた太刀があることからから鑑みると、弘安元年紀の国俊は38歳に当たることから年齢的には同人説も否定できないとしている。
 兄弟説の論拠としては『解粉記』の記述があり、之に拠れば『二字国俊是は国行が嫡子也。若時死たり。来国俊国行が二男也。是より来の字を打初むる』とあり、二字国俊は早世であった為に弟の来国俊が跡を継いだとある。
 親子説としては、徳川美術館所蔵の重要文化財太刀『来孫太郎作 正応五年(1292)壬辰八月十三日』は来国俊の作として伝来していることに論拠をおいている。この太刀の銘文に拠ると、来国俊は事実上の始祖『国行』の孫で且つ嫡子(太郎)であることを称している。これに拠れば国行→二字国俊→来国俊の親子嫡子説も有力となろう。
 双方の作風にはかなりの開きがみられ、『二字国俊』には丁子主体で小沸出来の華やかな刃文を焼いており、大出来のものは福岡一文字に紛れるほどのものがあるが、同工の作風は刃に沸がよくつき、映りは地沸状となる点がある。また『二字国俊』には来派の手癖である湯走り状の棟焼がみられ、棒樋の樋先は上がり茎に掻き通すのが通例である。かたや来国俊は細身の優しい姿をして直刃に小模様の乱れを交える穏やかな刃文を焼くものが多く作風は区分分類されている。
 この刀は大磨上無銘ながら、地刃良く冴えてよく詰んだ鍛えに地景がはいり、刃縁に湯走り風の沸筋を交え匂口明るい。地刃共によく沸づき冴え同工の作風が随処に示された優品で棟には来物の手癖である棟焼きが観られる。変化に富んだ丁子刃は頗る明るく二字国俊の特色がよく示されたもので所伝は首肯される。刃中処々に瑕があるものの巧く抑え込まれており美観を損ねない。

附)黒皺革包太刀拵特別保存刀装具
(表側全体写真裏側全体写真刀装具拡大写真)
  • 総具:皺革包 無銘
  • 目貫:三鈷柄剣図
  • 鐔:網目模様図 無銘
  • 柄:黒鮫着 黒糸諸捻巻
金着せ二重はばき(白鞘)・金着せ太刀はばき(太刀拵)、白鞘付属
参考文献・資料:
『重要刀剣図録』 公益財団邦人日本美術刀剣保存協会
『新版 徳川美術館蔵品抄B 刀剣刀装具』 徳川美術館、大塚工藝社、平成10年5月16日
 
刀 無銘 二字国俊
刀 無銘 二字国俊
ホームに戻る